藤迷宮(あるいは恐怖の話)

歌仙さんの怖いものとたぬきの怖いものの話。たぬき視点です。

たぬ歌漫画5」のネタとつながってますが単品でも読めます。

 

戦を終えて本丸に帰ると、自分の部屋で俺が寝ていた。

俺と寸分たがわぬ俺自身が、布団も敷かずに腕枕で転がっている。何がなんだか分からないまま俺は戸口で突っ立っていたが、間もなく脳裏でひらめいた。こいつは、以前戦帰りに俺が気まぐれで拾ってきた一振りの刀だ。

俺と同じく同田貫の銘を持つ刀。それの主は、何十年前かは分からないがとっくに死んでひからびながらも、そいつを抱いて荒野に居た。戦いに勝ったのか、負けたのか、それともただのたれ死んだのか。いずれにせよそいつは、戦と共にあった武士の刀だ。そいつ、と言うより俺自身だと言ってもいいのかもしれない。俺という存在は、この世に打たれた全ての同田貫の銘を持つ刀の集合である、ということらしいからだ。そこに横たわっている一振りが俺の姿をしているのも、そう考えれば不思議なことでも何でもない。

ふと気がつくと、寝ているほうの俺の傍らに歌仙が座っていた。こちらに背を向けていて顔は見えない。俺の眠りを妨げぬよう気を遣うかのように、ゆるやかに手を伸ばし、指先で俺の体の稜線をなぞる。刀身を収めた鞘をなでるが如く、いとおしむが如く。

―――という夢を見た。

俺はある夜その夢の内容をかいつまんで晩酌相手の歌仙に話した。面白がるかと思っていたが、歌仙は笑いもせずにひそりと、怖い夢だね、と言った。

 

同田貫、歌仙を見なかったか、と山姥切に呼び止められたのは、今日の戦を終え、手入れ部屋で修復を済ませしばらくぶらぶらしていたときだった。

「見てねぇな。」

「そうか。手入れの順番が来たのにどこにも見当たらないんだ。どこかで昏倒でもしていないといいのだが。」

今日の出迎え番である山姥切が不安げにそうこぼす。

今回の出陣ではほとんどの者が負傷し、俺と歌仙もそのうちに含まれていた。歌仙はどうやら他の軽傷の刀に先を譲って、応急手当だけ済ませどこかに消えたらしい。俺の覚えが正しければ、動けないほどではないが軽いとはいえない程度の損傷をあいつは受けていたはずだ。深手を負う姿を見たのは久々だった。

「もし歌仙を見つけたら、手入れ部屋は空いているからすぐに来いと伝えてくれ。」

「いつもの酔狂だろ。ほっとけ。」

何か不満を言いたげな山姥切の視線が刺さったが、すぐに伏せられ、廊下の向こうへ踵を返した。

「酔狂で死なれたら困るぞ。――見つけてくれ。頼む。」

試しに歌仙の部屋を覗きにいったが、当然影もかたちもなかった。

縁側から外を見やると、空は白くけぶり、おまけに雨が降っていた。霧のように細やかな雨粒が、蒼く繁った庭を覆うように降り注いでいる。その音はかすかで、辺りは静かだ。あいつがここにいたなら風流だと誉めそやしそうな光景だろう。

ふと思い立って、俺は濡れそぼるさなかの庭に降り立った。瞬く間に霧雨にまとわりつかれるが、気にせず木立の奥へ侵攻する。本丸の中に姿を見つけられないなら、外界を探せばいい。

おおよそ検討をつけていた場所にたどり着いた。二棟ほどのこじんまりとした藤棚は、今まさに紫色の花を開き始めていたようだ。下をくぐればある程度雨をしのげる空間がある。薄曇りの空のもとでは差し込む光も弱く、棚の下の薄墨の闇の中ではすべてのりんかくがおぼろげだ。

顔を濡らすうっとうしい雨粒を手でぬぐいながら奥に目を凝らしていると、にわかに闇が形をとってうごめいた。そのぼやけた黒い影が俺に意識を向けたのを感じて、はっとする。

「君の足音は分かりやすいね、たぬき君。」

影がやわらかな声を発する。

「何だい、もののけにでも会ったような顔をして。」

ああ、僕らはみなもののけだったね、と笑みを含んだ声でささやきながら、おぼろの影がゆっくり俺に近づき、やがて歌仙のかたちをとった。

土埃にまみれた戦装束のままだったが、顔や手についた汚れは拭き取ったようだ。黒い影のように見えたのは、血の汚れや負傷を見せまいとするように、黒いマントを胸の前まで掻き寄せていたからだった。普段から、戦場で汚れたままの姿でいるのを見苦しいとみなして厭う歌仙らしいといえばらしい所作だ。(ならばなぜさっさと手入れ部屋に入らないのか疑問だが。)

「僕を探しにきたのかい。」

そんな様態でおもむろに歩み寄ってくる歌仙からは、足音がしない。衣擦れの音すらしない。うっすら微笑しているその顔は、薄闇の中で両眼がうるんだ光を放っている。まるで本当のもののけだ。いや、それはもののけのしぐさだ。

見目のいい、美しいといわれる刀は本丸にもごろごろいるが、この歌仙兼定が、俺にとってその群れからひとつ浮いてみえるのは、そのしぐさによるものなのだということが段々と分かってきた。

あるとき、誰かが蔵から掘り出したのか、よろず屋で手に入れたのか、文楽人形が歌仙の手に預けられた。質素な素襖をまとった男の人形のようだったが、どんな役を演じるためのものかはよく分からない。興味を示した数人が見守るなか、歌仙が器用に人形を手繰る。一人で操っているために頭と右手しか動かせないようだったが、それでも器用にこなしていた。老人が腰をまげて虚空の何かにへつらうように見えた。これが翁、と歌仙がつぶやく。途端、おどけたような挙動の若者が袖を振って踊る。これが太郎冠者。たおやかにうつむき、悲しみをこめてうち震える。これが姫。歌仙の手の先で一体の人形が独楽のようにくるくると、いくつもの顔、姿に変貌する。ただの素襖姿の人形が、貴人にも童子にも動物にもなる。ただのしぐさ、それだけの違いで、ひとつのからだが七変化することをそのときに知った。そして、それはそのまま歌仙のことにあてはまる。

戦場でも歌仙はあるしぐさをする。敵と剣を交え、血を流し、からだだけでなくこころでさえざわめき昂っていても、いざ剣戟が終わると、はらりと熱情を地に捨てて、いつもの微笑を浮かべて声をかけてくるのを何度も見た。それは士さむらいのしぐさだ。士さむらいは激情に流されることなく、息を乱さず冷徹に戦うことのできる者達だ。将となるためには必要な資質でもある。そのしぐさをする奴は他にもいる。前の主の士さむらい達の影響か、戦のさなかでも平静な奴、平静を取り戻すのが早い奴もいる。だが歌仙のそれは、たとえ直前の戦いでどれほどの傷を負っていようとも、薄衣でも払うように昂ぶりを脱ぎ捨て、呼吸すら一瞬でととのえる。次に発される声は穏やかそのもので、そこに士さむらいの見栄、奴自身の誇り高さを感じる以上に、その切替えにぞっとすることさえあるのは、くるりと顔を変えていくあの文楽人形を思わせるからだろうか。

本丸に戻れば、近時として皆をまとめあげる宰相のしぐさをする。かと思えば、仕事を加州や山姥切その他にていよく押し付けて、自室やら庭の中やらで風流人のしぐさをする。厨に立てば料理人のしぐさをする。ひとをからかうときは酔狂人のしぐさをする。

どれが表で、どれが裏なのかわけがわからなくなるくらいに、場面に合わせくるりくるりとしぐさを変えていく歌仙は、ひとを欺く狐狗狸こっくりのようだ。だが、それらの全ては、きれいだった。

 

俺のそばまで歩み寄ってきた歌仙からさっきの魔性の気は消えていて、何気ない様子で草の上に座る。つられて俺もそのとなりにあぐらをかいた。さっさと山姥切の伝言を伝えて引っ張っていくべきなのだろうが、何故かすぐにはそこから動く気はないような頑なさを、今の歌仙から感じられた。

「気が済んだら、戻ろうと思ってたんだ。君が探しにきてくれるのを、期待してなかったと言えば嘘になるけどね。」

霧雨による湿り気は、藤棚が囲うこの空間の中にも満ちている。うっすら水気を吹くんだまつげの下で流し目をよこし、歌仙はまた微笑んだ。これもまたよく俺に見せてくるしぐさだ。

「君とふたりで、藤棚に隠れて雨宿り、いい歌ができそうだ。」

草木と雨のにおいでも嗅ぐように深呼吸している。だが今そこには血のにおいもかすかに混じっている。

「なんで、手入れ部屋に行きたくねえんだ。」

率直に問うてみると、うーん、そうだねぇと歌仙は首をかしげた。何か言葉を選んでいるようすで、答えははぐらかされるかとぼんやり思っていたら、意外な言葉が返ってきた。

「僕はね、手入れ部屋が怖いんだ。」

「あ?」

「あそこに入ると寝ている間に勝手に傷が完治しているだろう。君は怖いと思ったことはないかい?」

そんな感想にはさっぱり思い至らなかった。あそこにいるあいだ戦に出られないのは業腹だが、なんだかんだ言っても、からだの痛みや不具合がなくなるのは楽で便利だ。日頃から戦に臨んでいれば定期的に手入れ部屋に世話になることになるから、健康状態が保たれて病気などにかかる者もほぼいないという相乗効果もある。何も悪いことはない、と自分は思う。

腑に落ちない思いが顔に出ていたのか、歌仙は俺をちらと見て笑う。

「あの部屋に入れば、負傷したからだは治る、昂ぶった神経も静まる、どんなささいな不調も見逃されずに恒常の状態に戻る、であれば、こころのほうだって、不調があれば治されてしまうのではないか、と僕は思ったんだ。」

こころ、とはどこにあるものなのか。頭のなか。胸のうち。頭を切った傷は治る。胴を貫かれた傷もまた治る。

その目をうつむけたまま、歌仙の手が芝の上に置いていた俺の手にそっと重なってくる。

「つまりね、たとえばこの、君に恋する僕のこころが、”不調”とみなされたときは、あの部屋であっけなく治されてしまうんじゃないか、ってことさ。なにせ、顕現したばかりのときには無かったものだからね。これは怖いことじゃないか。」

もとより歌仙の語りにうまい返しをできたことなどないが、このときばかりは突拍子もない話についていけなかった。歌仙の横顔をまじまじと見つめるしかできなかったが、こいつはふざけてこんな話をしているのではない、ということだけは何となく理解できた。

「――妄想だな。」

「ふふ、そうだね。」

なんとか絞り出した一言は軽くいなされた。俺は不意にもどかしさを感じた。

確かに手入れ中は休眠状態になるから、どこをどういじられたとして気付きようがないのだが、しかし手入れ部屋に入る前と後で、記憶や精神の不一致を感じたことなど俺は一度もない。あんただってそうだろうと、そう諭すのは簡単だが、きっと歌仙は真に納得はしないだろう。(「忘れたことを自覚できたら忘れたことにならないだろう。」とでも言い返すに違いない。)たとえ馬鹿げた話と分かっていても、一度恐怖にとりつかれれば理性でどうにかできるものではない。恐れのこころは己で克服するしかない。だが、それでも、戦の汚れと湿気で少ししおれた花のようになったこいつの姿を見ていると、気休めでも何かを言わなくてはいけないような気にさせられた。

しかし二の句を告げられずにいると、ふと歌仙が思い出したように言った。

「ねえたぬき君、僕らが生きるこの世界で、僕が君を選んで、君が僕を選んでくれた、この類まれな偶然が、どのくらいの確率なのか知っているかい。およそ三十億にひとつくらいなんだよ。」

「はぁ?」

もうどんな素っ頓狂なことを言われても驚かない気分だ。細かい数字は忘れてしまったから、だいたいだけどね、とのん気な調子で言われれば、どういう計算なのかと聞く気も起きない。思えば、らちの開かない話を延々聞かされるのはいつものことだ。もう返事をする努力も捨てて歌仙が話したいだけ話させることにする。

「途方もないだろう。実はとんでもなく奇跡的なことなんだ。君とふたりで、並んで座ったり、触れ合ったり、それよりもっといいことをしたりするのは。なのに君はいつも当然のような顔をしてて、僕はときどき腹立たしいよ。」

そんなこと知るか、とは言わずに黙っておく。

「君は疑いもしないかもしれないが、僕らのからだを意のままにつくり上げることのできる主の力が、僕らの精神にだけ及ぶことがないだなんて、僕には信じられない。」

重なったままの手が、力をこめて俺の手をにぎるのを感じた。

「僕は、こうして君と懇ろになれたことを、運命だとは思わない。夕に沈んだ太陽が朝にまた昇ってくるように、当たり前だとは決して思わない。だから、とても大切にしなければならない。そうしたい。それなのに、手入れをすればこの傷の痛みを忘れられるのと同じに、このこころもある日あっさり忘却してしまうものかもしれない。――僕は、それが一等怖い。」

そのとき、歌仙がつと顎をあげた。まるでそのタイミングで仰向くよう決められていたかのように、白い顔が少し上向く。曇り空のわずかな陽光が、藤棚のすき間から歌仙のおもてをほのかに照らす。歌仙が目をつむる。そのとき、脈絡もなく、ひとつの雨粒が、歌仙のまぶたにぽつりと落ちた。息を呑む間に、その粒は目のふちをなぞって頬をつたい、草むらに落ちる。はっとしたように開かれた歌仙の目の端には、涙が通ったようにきらめく光の筋ができていた。

その一部始終を、ゆっくり進む時間のなかではっきりと目撃したとき、ぞくりと背筋に電気が走った。何か、些細だがとてつもない奇跡を見たような気がした。

歌仙の目がこっちを見ている。その瞳もまた濡れていて、一層きらめきを増している。気がつくと俺は手をのばし、しずくの軌跡を指でなぞっていた。歌仙は抗わず、ほおをすりつけるように身を寄せてくる。普段でさえなめらかなその皮膚はだは、この霧雨で水分を含みひやりとして、肉厚の花びらに触れたような感触だ。俺の腕に歌仙の手が白蛇のごとくからみつく。軽く預けられた体重が心地よい。手のひらを歌仙の吐息がくすぐっていった。

誘われている。何度経験しても、目が眩みそうになる誘惑。このしぐさは、何と呼べばいいだろうか。

両の手でしっかりと歌仙の顔をつかんでから、口づけをする。緑の目がうっとりと閉じられるのを見ながら、唇に噛みついてやる。歌仙のからだが一瞬ふるりと震えるのを、触れている部分全てで感じて、本能的な嗜虐心を煽られた。怪我人だろうと気にするものか。舌を入れる。歌仙の味と少しの血の味がした。

こうやって、今までに何度もお互いの熱を交わらせてきた。深く交われば交わるほど、歌仙の目が、手が、からだがもっと奥へと俺を引きずり込もうとする。この憎たらしいおとこが弄する手管は千変万化で、そのたいていは(ときには酔狂が過ぎてよく分からないものもあるが)否応なく心地よいものだった。

しかし時折、不安が忍び寄ることもある。こうして口づけで高まった熱も、歌仙がくるりと身を翻せば一瞬で消滅するかもしれない。今しっかりとつかんでいるはずのこの顔が本当は能面で、その下に冷めた素顔があるかもしれない。素顔があるならまだいい。面しか持たぬ文楽人形だったら――これもたいした妄想だ。

けれども、歌仙の手繰るしぐさという面の下が、虚空ではないことははっきりと言える。確かなりんかくをもった何かがある。それを命と呼ぶのか魂と呼ぶのか知らないが、その片鱗を初めて歌仙の演舞のなかに見てとったそのときから、歌仙が誰よりきれいに見える理由がそれにあることは分かっている。単純な暴力とはまた違う力がそこにある。ねじ伏せる力ではなくのみ込む力。魅せるアウラ。俺がこいつのそばにいる意味は、その核心に惹かれているからなのか、それとも恐れているからなのか。おそらくは、くやしいことだが、後者の割合が大きい。きれいなものは、恐ろしい。

俺にとって、勝利するとは斬り伏せることだが、仮に歌仙を斬り伏せることができたとして、それだけで勝利と呼べるだろうか。歌仙のアウラを克服したと言えるだろうか。真の意味での歌仙との戦いに、どうすれば完全勝利できるのか、はっきりとした答を俺はまだ出していない。

幾千もの戦場を駆け抜けて、冥府魔道をそぞろ歩き、地獄の荒野を舐め尽くし、恐れるものなど何もない。そんな俺が、こんなやわい皮膚はだをした文系刀に恐れをなすとは笑い種だ。

だが、それでも俺は、この恐怖を愛している。

そろそろ行かないと、とからだを離したあとに歌仙はひとりごちた。藤棚の向こうの空を見やると、霧雨は上がっているようだった。やにわに世界の色彩が鮮やかさを取り戻す。

「山姥切を困らせてはいけないね。」

「手入れが終わったらあんたの部屋に行く。」

そう告げると、歌仙はいたずらっぽい笑みを浮かべておもむろに小首をかしげる。

「おや、夜のお誘いというやつかい?」

からかいは無視してその手を握る。

「もし、あんたが俺とのことを忘れてたって、押しかけるからな。それだけは覚えとけ。」

すると、歌仙はわずかに目を見開いたあと、はにかみのような、奇妙な顔をしてうつむいた。勝手なことを言う、だの、僕の戯れ言信じたのかい、だのごにゃごにゃ言いながら、意味もなく髪をいじっている。困っているような、それでいて満更でもないような、判然としない表情だが、あまり見たことのない妙なしぐさが何だか可笑しくて、ちょっとばかり愉快な気分になった。

半ば外へ向けていたからだをもう一度俺に向き直し、歌仙は雨上がりの陽光に輝いた瞳をぐいと近づけ、微笑んで、

「戻る前に、もう一度だけ――」

俺が返事をするより先に唇が重なってきたそのとき、唐突に、なぜ歌仙が俺の見た夢を怖いと言ったのか分かった気がした。あの夢の中で、もし歌仙の手がさらなる愛撫を深めて、(俺が俺自身だと認めたはずの)もう一振りの俺がそれに応えていたとしたら、問答無用でたたっ斬っていたかもしれない。どちらを、と問われれば、それは言うまでもないことだ。

なるほど、あれは怖い夢にちがいない。