「落実」(2022.08) - 2/2

 

 

「恵、出かけるの?」

休日の午後、恵がそっと玄関に降りて靴を履いているとき、自室から出てきた津美紀が声をかけてきた。

「いつもの散歩?」

「あぁ。」

お互い十代に入ってからこれまで、しばしば繰り返してきた簡単なやりとり。それでも子どもの頃の津美紀は、よく家を抜け出す恵の行き先をしつこく聞き出そうとしたこともあった。最終的に恵の口の堅さに根負けしていたが。

「今からコーヒー淹れるから、飲んでからにしたら?寒いでしょ。」

だからこうしてやんわりと引き止めてくるのは、ずいぶん珍しいことだった。

「平気だ。晴れてるし。」

アパートの窓の外では、葉を落とした街路樹が十二月の寒風に晒されていたが、空には陽が輝いている。

「ねぇ、願書どこに出すかもう決めた?」

頑なな義弟の性質を心得ている津美紀は、早々に本題を切り出すことにしたようだ。

「……決めてない。」

「迷うよね。恵の成績なら東京の私立だって射程範囲でしょ。」

「適当な公立でいい。」

「またそんなこと言って、将来後悔するよ。」

「じゃあ津美紀が決めてくれ。」

「そのくらい自分で決めなさい!……なんて、私もまだ転校先決めかねてるんだけど。」

ふう、と津美紀はため息をつく。

「お母さんがね、どうせなら制服が可愛い名門女子校にしようなんて言うのよ。でも私のレベルで入れてもらえるかな……。恵はどう思う?」

困り果てたというような口調だが、その表情は幸せな少女のものだった。それがまぶしくて恵は目を背ける。

「それもいいんじゃねぇの。」

「もう、真面目に聞いてよね……。そんなに出かけたいならさっさと行けば。」

津美紀の軽口に反論はせず、恵は玄関の扉を開けた。その背にふと津美紀の言葉が投げかけられる。

「――恵、一緒に東京、行くんだよね。」

その問いかけの声音は暖かかったが、一匙の不安が含まれていた。

「……そうだな。」

平坦な声で答えたが、津美紀の顔を見ることはできなかった。きっと、さっきまでの幸福の顔に陰りをみせているだろうから。

「……だよね。家族だもんね。」

その一言は聞こえなかったふりをして、義姉に憂いを抱かせる自分自身を彼女から遠ざけるために、恵は玄関扉をしっかりと閉ざした。

 

買い物を済ませた後、近所の雑木林に到着し、いつもの場所を目指して枯葉道を歩きながら、恵はあの枇杷の木と出会った頃のことを思い出していた。

子どもの頃から、恵の目には世界のあちこちにわだかまる妖しいものが視えていた。周りの者たちには視えていないから、それが何なのかは誰にも教えてもらえなかったが、人の感情で例えれば恨みや憎しみのような、気味の悪い、負の気配、陰の気といったものが煮凝ったような善くない存在であることは感じ取れた。そんなものが恵の住む街のそこかしこに佇んでいる。ただでさえ、親たちの無関心によって恵と津美紀の生活は徐々に足場を失い、食べるものにも困窮し、子どもであるが故に現状を自力で打破できない苛立ちと空腹で陰の気がたまる一方の恵に、妖しいものたちはわらわらと引き寄せられてきた。そんなものを津美紀のもとに持ち帰らないよう、慎重に撒いてから帰宅するのに無駄なエネルギーを消費していたそんなとき、恵は宿儺と出会った。

ある日の下校中に近づいてきた妖しいものたちの目を逃れるため、足を踏み入れた雑木林のなかでその木を見つけたとき、恵はたいそう驚いた。枝の天辺から根本まで、全身にうっすらと陰の気をまとわりつかせた樹木など、今まで見たことがなかった。妖しいものたちはたいてい街の路上か、人工物か、人間に取り憑いているものであった。その得体の知れない木を観察してみると、とても古い老木にみえたこともあり、きっと何かの本で読んだ霊木というものなのだろう、と幼い恵は一人合点した。ありがちな注連縄などは巻かれておらず、周囲に寺社なども無かったが、その木の気配は大人しく、恵に取り憑こうとしたりするそぶりはなかったことからもその推察を補強した。それが最初の過ちだった。

その枇杷の木の周辺には、不思議と妖しいものたちが近づくことはなく、格好の一時休憩所として利用していたところに突然話しかけられたときは肝をつぶした。それでも相手はただの植物であり、恵を害してくるようであれば逃げればいい、という油断がなかったといえば嘘になる。枇杷の木の声――宿儺は、恵の想像していなかった搦め手で、恵を逃げられなくした。だが、あのときの自分が何も知らない子どもだったとしても、枇杷の実を食べたのも、呪いの実を摘み取ったのも、宿儺と誓約を交わしたのも、恵自身が選んだ選択だった。

宿儺がよこした呪いの実を誰に食べさせるか考えたとき、真っ先に浮かんだのはろくでなしの父親のことだった。記憶にある限り、奴は体が異様に頑丈だったから、万が一食あたりを起こしても耐えられるだろうし、耐えられなかったところで良心は痛まないと考えたからだ。断じてそれ以外の理由などない。だが結果をいえば、呪いの実が腐ってしまう直前に姉弟の前に現れたのは、わずかな生活費を置いていくためだけに帰ってきた義母だった。そこで意を決した恵に言いくるめられて赤い実を食べさせられた義母は、それから毎日アパートに帰ってくるようになった。それが第二の過ちだった。だが、仮にあの日に時間を巻き戻せたとしても、恵はきっと同じことを繰り返しただろう。

それから、恵は義母を日々観察し続けた。もともと彼女は日常的に情緒が不安定で、陰の気をまとわりつかせた女だった。それが呪いの実を食べたことで更に濃さを増しているのが、恵の目には視えていた。宿儺が打って恵が与えた呪いによる誘導で、その慢性的な不安感を姉弟――特に実の娘である津美紀に執着することで紛らわせようとしている様子だった。それでも、今までの無関心よりはマシである。呪いが効いているうちに蓄えを増やすなり何なりして、自立までの計画を建てられればいい。あとは恵が呪いの代償として、あの口の悪い枇杷の木の相手をすればそれで済むのだ。しかし恵にとって予想外だったのは、三年も経たないうちに呪いの効果が薄れてほとんど無くなったあとも、義母は姉弟のもとにとどまり続け、家庭は形を保ち続けたことだった。それはひとえに、津美紀の尽力によるものだった。

母親の唐突な執着を愛情だと好意的に解釈した津美紀は、それを二度と手放さないためにか、地道な努力を始めた。仕事に出かける母のために早起きして朝食と弁当をつくり、帰宅する頃にはきれいに清めた居間と温かい夕食で出迎えた。毎日のように母がこぼす愚痴や小言を、口答えせずに何時間でも向き合い続けた。それは一見して共依存のようにみえるかもしれないが、津美紀からは陰の気ではなく陽の気がはつらつと発散されているのを恵は視ていた。津美紀は津美紀なりの戦いをしていたのだ。このアパートの一室を二度と寒く寂しい空間にしないために、己と家族の幸福のために、一日一日を必死に生きることに努めていた。そんな血のにじむような持久戦の末に、今では津美紀の陽の気は母親に伝播してその精神を安定させるようになっていた。津美紀の戦いは、恥じるところのない正当な勝利を得た。そんな義姉の逞しさを恵は心から尊敬している。彼女の行為は恵が犯した行為とは正反対の正しさだったから。

そういうわけで、呪いの実はその役目を終えて誓約を継続する条件は無くなり、生活が安定して恵までも陽の気を取り戻したおかげか、妖しいものたちに追いかけられる頻度も減った。だが、それからも恵はあの場所へ通い続けていた。

かつて宿儺は、善とは調和だと言っていた。陽の気に満ちた家庭のなかで、心身ともにつながりを得た母子の絆は、完璧な調和を構築していた。その善なる調和の空間で、自分は異分子なのではないかという思いは、一度気付いてしまえば恵のなかで日に日に増していった。いくら考えてみても、この家のなかで恵というピースが違和感なく、調和を乱すことなく収まる場所が見つからない。もとより彼女たちとは血のつながりがなく、その上恵が秘密を抱えてしまったために互いのあいだには溝ができ、年齢を重ねるごとにそれは超え難い大きな川となろうとしていた。無意識にその危機を感じ取ったのか、何も知らないはずの津美紀は時折対岸から恵に手を差し伸べてくれたりもした。だが恵にはその手を取ることがどうしてもできない。呪いで穢れたこの手ですがることで、津美紀が努力して築き上げた善の世界を壊したくない。

ふと、おぼろげにしか覚えていない父の背中を思い出した。結局一度も帰ってくることはなく、いつの間にか義母とは離婚していて、もちろん恵を引き取りになど来なかった。そんな父の心情など今まで理解したくもなかったが、もしかすると、ここは自分が居座っていい場所ではないと悟っていたのかもしれない。今の恵と同じように。そう考えると、ほんの少しだけだが、彼に同情することができる気がした。

そうして日々津美紀が母のためにつくった食事を分けてもらいながら、家族の一員であるようなふりをするのに耐え難くなったとき、恵が避難できる場所はあの枇杷の木の、宿儺のもとしかなかった。恵以外に訪れる者もない雑木林のなかで、以前言っていた通りにいつでも宿儺は恵を待っていた。そして恵がうろの中に入れば、自然と会話をぽつぽつと交わすようになった。

初めて言葉を交わしたあのとき、宿儺は自分を木霊のようなものと嘯いていたが、その声音や言葉遣いには生き生きとした感情があり、なにより性格が俗悪なことから、もとは人間だったのではないかと恵は内心で推察していた。宿儺の声は深みのある大人の男の声で、頭の中に直接響いてくるのに、どうしてか耳元が吐息で温められているような錯覚がして、はじめの頃は首筋がぞわりとしていたが、馴染んでくるとそれが案外心地よい。悪い奴のくせに、否、悪党だからこそこんな声をしているのかもしれない。

どうやら宿儺は相当な長生きでそれ故に退屈しているのは本当らしく、現代の人々がどのように暮らしているのか、子どもの恵の知識の範囲で話すだけでも、興味深げに耳を傾けて何度も質問を投げかけてきた。代わりに恵が呪いについての知識を得ることもあった。恵がいつも視ていたあの妖しいものたちは呪霊と呼ばれていて、大昔の人間は呪術を当たり前のように使いこなしていたらしい。宿儺はそんな会話や知識の交換を、純粋に楽しんでいるようでもあり、また恵が油断をして欲望を漏らしはしまいかとじっと待っているようでもあった。だから恵は、二度とあんな過ちと屈辱を味わわないためにも、伝える情報は慎重に選んでいた。以前はうっかり喋ってしまった義姉の名前も二度と口にしていない。

そんな風に神経を使いながらも、恵はここに通い、宿儺と応酬をし、枇杷を食べていた。誓約の条件であることを抜きにしても、宿儺がもたらす枇杷の実は上品な甘みがして好ましかった。恵の義務であり特権でもあるその果肉をかじり、舌にのせ、嚥下して食道に潜らせる感触を意識する。そしてその先、胃で消化して小腸で養分を吸収し、全身の血管に届けられる様を想像する。そういった体内の器官たちの活動もまた、ひとつの調和した世界であると学んでからは、こんな自分のなかにも善なるものが存在するのだという喜びを感じることができた。あの家のなかで食事をするときは、いっそ自分など消えてしまいたいとすら思い詰めていたのに、ここでは一転して生きる喜びを得ているなんて、何とも浅ましいことだ、と密かに自嘲する。そんな感慨を宿儺に話せば笑われるだろうか。あの悪い声で、もっと味わえ、と唆すかもしれない。

宿儺と恵が結んだ誓約は、呪いの実の効果がなくなるまで、という期限付きだったが、実際にそうなってしまったあとも恵は宿儺のもとに通い続けている。縛りを違えれば罰を受ける、と以前宿儺は言っていたが、この状態はそれに抵触しないのだろうか。これまで恵の頭の上に雷が落ちることもなく、のん気に枇杷を食べに行くことができているのだから、期限が切れた時点で誓約の全ては無効になっているのだろう。宿儺は気付いていないのか、気付いていて黙っているのか、恵がいつ訪ねても必ず果実をひとつ実らせていた。それを今まで問い質さなかったのは恵のエゴでしかない。唯一つしかない避難場所を失うことを恐れていた。

だが、そろそろけじめをつけるときが来たようだった。

 

恵は枇杷の木の前までたどり着いた。常緑樹であるために、冬でもその葉は青く茂っている。今ではすっかり背が伸びた恵にとって、枝葉が絡み合った奥にあるうろの空間は狭すぎて、浅く腰掛けるくらいしかできない。だが今日はそれもせずに、敢えて一歩引いて佇む。そして告げた。

「母親が再婚することになった。」

恵の突然の一言に驚くこともなく、声は即座に応えた。

『そうか。』

恵は更に畳み掛ける。

「東京に引っ越すことになった。」

『ほう。』

その短い応えに動揺の影はなかった。恵は握っているものにぎゅっと力をこめる。

「今日、俺が何を持ってきたか分かるか。」

『さてな。ずいぶん剣呑な気配だとは感じられるが。』

「俺は今、斧を持っている。」

ここへ来る前に思いついて、ホームセンターで買ってきた薪割り用の斧だ。だがそれは、あの日に幼い恵がこの木の幹を蹴りつけたときの瞬発的な衝動と大差なかった。この程度の斧では、枝を落とすことができても老木を切り倒すことはできない。仮にできたとしても、それには意味がないことを頭の隅では分かっていた。宿儺はこの木の中にいるのではなく、もっと下、地中の根の下のその奥に隠れている、ということは以前から感じ取っていた。恵の目でもはっきり見通せるわけではないが、いわゆる、根の国と呼ばれる場所なのであろうか。しかしそれでも、恵は凶器を手にしてからここへ訪れたかった。不退転の決意で宿儺と対峙しているのだと思い知らせるために。

『伏黒恵。オマエの望みを言ってみろ。』

そんな恵の気配を察していても、宿儺は鷹揚に言葉を発した。

「――誓約を結びたい。」

声が震えそうになるのを何とか抑えて恵は告げる。

「今このときをもって、オマエが地上に新たに実らせるものを全て禁じたい。果実も、花も、葉も枝も全部。」

古い誓約はその効力をすでに失った。もし恵がこの土地を去っていったとして、この男はどうするだろうか。また迷い込んできたどこかの子どもに声をかけ、たぶらかして枇杷の実を食べさせるのだろうか。退屈しのぎに新しい呪いの遊びを始めて、そのまま恵のことを、恵に何をしたかを忘却していってしまうのだろうか。そんなことは絶対に許せない。

かつて宿儺は、恵の思いを理解できるのは自分だけだと言った。そんなのは当然だ。津美紀にも触れさせたことのない、恵の頑なな心の奥に狡猾に手を差し入れてかき回した当人なのだから。恵が怒りに我を忘れるような体験をしたのも、この男の前でだけだ。そして何より、宿儺がもたらした果実ひとつ分の呪いは、恵の人生と恵自身を大きく変容させた。恵はただ、自分が不幸をかぶってでも津美紀を幸せにしてやりたかっただけだった。だが穢れを負うということは、自分が善なるものを脅かす存在に変わってしまうということを、子どもであった恵は真に理解していなかった。津美紀は新しい家族と新しい調和の世界を築くだろうが、そこに恵を迎え入れてもらおうなどと思ってはいない。

「俺は東京には行けない。それで俺が孤独になるのは自業自得だ。だからといって、オマエが何の報いも受けずにのうのうとしているのは腹が立つ。たとえ天が許しても俺が許さない。オマエから果実を受け取る人間は、俺で最後にしなくちゃいけない。」

その甘くて苦い味を知っているのは恵だけでいい。

「俺の望みは今言った通りだ。代償は何だ?俺が持っているもので、どのくらいオマエを縛れる?」

恵の持っているものなどこの身一つくらいであり、そんなものでこの正体の計り知れない存在を望み通りに拘束できるのか、期待は薄いが、それでも恵は身の丈を超えて欲張った要求を突き付けた。たくさんの枇杷を寄越せと強請ったあの日の自分のように。

両者のあいだに沈黙が降りたのはほんの数秒のあいだだろうが、恵にはそれ以上に長く感じた。不意に、枇杷の木がまとっていた陰の気――呪力が、ぶわりと四方にふくれ上がった。木が、宿儺が哄笑を上げている。その禍々しさに気圧されそうになったが、恵の内で煮詰まっていた憤りの内圧のおかげで踏み止まることができた。

『ケヒッ。それが、他ならぬオマエの望みというわけか。いいだろう。――代償は、オマエが俺のもとへ逢いにくることだ。』

逢いにくる、とはどういうことか。恵は一瞬首を傾げたが、すぐにはっとした。とっさに足元の、根が埋まっている地面に目を向ける。

『そして、オマエの魂が消滅に至るまでのあいだ、俺はオマエに縛られよう。』

声ははっきりとそう告げた。ここが正念場だ。恵は考える。魂が消滅するとは、死ぬという意味だろうか。宿儺の座する場所まで赴いたとして、恵がどれだけの期間を持ち堪えられるか分からないが、どのみち永久的に縛れるとは期待していない。恵が死ぬまでのあいだだけでも、この男が地上に干渉する手段を奪えるなら上々だ。そしてきっと、恵は二度と地上には戻ってこられないのだろう。脳裏に津美紀の顔が浮かんだ。アイツは恵よりずっと強い心を持っているから心配はしない。未練を断ち切る覚悟はできた。

「分かった。その条件で構わない。」

枇杷の木が頷くようにわさりと揺れた。

『では、誓約の証をたてよう。その斧で幹に傷をつけろ。』

斧を使うのは初めてだったが、恵はできる限りの力をこめて刃を突き立てる。樹皮にくさび型の裂け目ができ、そこからぞっとするほどに赤い色をした樹液が後から後から溢れ出てきた。その光景に思わず竦んでしまった。

『それを啜るといい。甘ったるい実はもう飽きたろう。』

そんな恵を挑発するように宿儺が誘う。恵は不要になった斧を捨て、負けん気をふりしぼって裂け目に顔を寄せる。血のような見た目と裏腹にそれは生木の匂いがした。そして樹液に舌が触れたとたん、味蕾が味を感知するより先に、刺すような鋭い刺激が全身の細胞に響き渡り、恵は意識を失った。

 

やがてぼんやりと目を覚ますと、恵は温い空気に満ちた昏い空間にいた。薄く水が張られた平面に寝転がっているようで、徐々に目が慣れてくると、はるか上方に胸郭の骨に似たアーチが聳えていて、そこに無数の太い根が絡まっているのが見えた。意識を覚醒させた恵が起き上がるより先に、ぬっと大きな影が覆いかぶさってきた。まず視認したのは、恵よりもずっと大きい、仁王像のようなむき出しの男の胴体だ。蛇のようにうねった黒一色の刺青が施されている。視線を上に上げていけば、その隆起した肩と首筋の上に乗るにふさわしいごつごつとした顔があった。髪は赤く、その眼は二対あり、半面は木片のようなもので覆われていた。恵は声を発するより前に両の手を伸ばしていた。男の胸板と、覆われた半面に手のひらが触れる。思った以上に温かくて、木片だけでなく体のところどころにも苔が生えているのに気付いた。ついに邂逅した。恵は今、宿儺の正体を目の当たりにしている。

無遠慮に触れられても宿儺は邪険にすることなく、お返しのように、大きな二つの手が恵の胴をつかんだ。衣服越しでもそれはやたらと熱かった。続いて、更に二つの手が現れ、邪魔だと言わんばかりに恵の服を引き裂いた。え、と疑問符を飛ばす間もなく、晒された恵の皮膚を四つの手のひらがぴたりと包み込む。その瞬間、火で焼かれるような、酸で溶かされるような灼熱の痛みが恵の胴体を襲った。あまりの衝撃に目がくらみ、喉から引き攣れた声が出た。気を動転させながら、涙で霞んだ視界で捉えたのは、宿儺の手が触れている部分の皮膚が飴のようにぐちゃりと溶け、太い指が今しも恵の肉に食い込もうとする光景だった。本能的に逃げ出そうと試みるが、衝撃から脱しきれていない身体は震えていて力が入らず、腕を押しのけることもできない。そんな恵を嬉しそうに眺めながら、四本の腕を持つ怪物はその手の熱で恵の肉を溶かし続けていた。その信じがたい現象と痛みに混乱した恵の頭に直感的ににひらめいたのは、以前恵が想像した、枇杷の果肉が自分の胃のなかで消化される様だった。ここは宿儺の胃の腑のなかだ。そして恵はそこに落ちてきた果実なのだ。思わず恵は呻いた。

「――……溶けるッ」

宿儺は肉食獣のように目を細めて、顔をそばに寄せてきた。

「そう簡単に溶け落ちてくれるなよ。」

聞き馴染んだ声が耳朶に注がれて、身体がびくりと反応する。

「この領域に肉体と魂の区別は無い。己のりんかくを思い出せ。」

間近にあるお互いの胴のあいだで、ぬちゃりと粘ついた音がした。反射的に目をやると、宿儺の腹がぱっくりと割れて、そこから這い出た巨大な舌が、溶けた肉をうまそうに舐め取っていた。そんな有様を見て頭に血が昇りながらも、恵は必死に正気を保つ。言われずとも、このまま溶けて消えてしまうなんて恵にとっても不本意だ。不随意に震えて思うように動かない身体の感覚を取り戻さなくては。枇杷の実を食べる度に繰り返し意識していた、己の身体に内在する器官たちの調和、恒常性ホメオスタシスを保とうとする連携活動を今こそ強く想起する。恵は何とか息を吸って丹田に力を込め、血液が末端まで巡るのを想像する。末端の先には筋肉が、皮膚がある。あるのだと強く念じる。それは恵の生命の、魂のりんかく線でもある。やがて、じくじくとした痛みが遠ざかっていくのを感じた。乱されていた身体の表面が調和を取り戻していく。今の恵には、死地に至って生を欲し、無意識に呪力を練り、いわゆる反転術式と呼ばれるものの原理を会得しようとしていることなど、当然知る由もなかった。

詰めていた息を吐いて脱力する恵を見て、宿儺は満足そうに頷いた。

「そうこなくてはな。俺がやってもいいが、それでは縛りを設けた意義がない。」

これで心置きなく味わえる、と言うなり、再び恵の身体に触れてきた。腹だけでなく背中も、首も、手足もくまなく溶かそうと、四つの手が有無を言わさず触れて回る。最初の衝撃ほどではなかったが、灼熱に炙られ続ける拷問に恵は呻いてのたうった。更に宿儺の顔の口と腹の口の両方の舌が、恵のふやけた肉を熱心に舐める。好き勝手嬲られることに苦痛を超えて怒りが湧き、宿儺が息をついて顔を上げた隙に、その喉仏に噛みついてやった。枇杷の果肉のようにかじり取りたかったが、流石に男の皮膚は固かった。宿儺は慌てることなく己の喉から恵の顔を離し、行儀の悪いその口をたしなめるかのように、唇に唇を重ねた。すぐさま宿儺の分厚い舌がねじ込まれて、当然のように口腔内も熱で溶かされた。唾液とも溶けた肉とも分からない粘液を、恵の舌ごと強く吸われて啜られたそのとき、熱さと疼痛の影に、甘い痺れが忍び寄ってきて、恵の奥歯を震わせた。その感覚を一度覚えてからは、宿儺が舌で舐める度、手指が皮膚を擦る度に、表皮の向こう、真皮の奥の神経組織が、倒錯的な悦楽を少しずつ感受するようになっていった。未知の領域へ突入した刺激に耐えるため、恵は宿儺の猪首に腕を回し、懲りずにそこへ歯を立てる。それをわざと真似するように、宿儺は全ての腕で恵を掻き抱いて、同じく首筋に噛みついた。歯の食い込んだ肉が溶けて潰れてぐちゃぐちゃになり、そこに痛みと悦びの感覚が渾然一体となって、恵をさらなる混沌に導いた。

それでも、与えられる苦と快に翻弄されながらも、恵は自身のなかにある善なるものだけは頑なに守り続けた。それさえ死守できれば、恵は何度でも調和を取り戻し、何度でも復活できる。そうして恵の魂が形を保ち続ける限り、この怪物は恵だけのものだ。

「……美味いのか?」

恵が荒い呼吸の合間にやっとそれだけ問うと、宿儺は瞳を爛々とさせて答えた。

「あぁ、美味い。」

そんなてらいもない正直な反応をされて、恵は自分がいつまでも憤りを抱えているのが馬鹿馬鹿しい気分になってきた。よく考えてみれば、この根の下の昏い領域に、宿儺は長い長い時間ひとりきりだったのだ。恵の痩せた身体でも十分にごちそうなのだろう。寂しい子どもだった恵にとって、枇杷の実ひとつがごちそうだったのと同じように。これが同情なのか慈悲なのか判然としないが、もしかすると永遠の道連れとなるかもしれない男の苔むした半面に、恵は唇を寄せて口づけを与えた。

 

今日も昨日と変わらない一日が始まり、鳥たちはさえずり、虫たちが飛び交い、その雑木林の奥深くに佇む老木も、回りの樹木と同じように葉を風に揺らしていた。前の冬に一人の少年が失踪したが、それはやがて忘れ去られ、すべて世は事も無く、枇杷の木はそこにあり続けた。

 

 

 

魂を油で揚げるのは水木御大リスペクト。(人魂の天ぷら)
この時空の恵は禪院家の血を引いてないと思います。甚爾も身体が頑丈なだけの一般人。
宿儺は何でも正直だからモノローグも簡便で済むけど、恵は正直じゃなくてひねくれてるからモノローグが長~くな~る……
久しぶりに小島麻由美を聴いたら「やられちゃった女の子」がけっこう落実イメソンだった。