【R18】拐かし(2011) - 3/3

 

三日目

 

昨日嫌というほど潮風にあたったのだから、今日は山に行こうかと零は漠然と思いついた。そう思いついてみると、海と山という安直な対比がかえって面白く感じて、是が非でも行かなければと心に決めた。板倉にそう告げると、特に計画も無かったらしく素直に同意された。

そうして、二人は昨日下っていった坂道を今日は真逆に登っていった。山と言っても、軽装で十分上り下りできる程度の丘といっても差し支えない、まばらな森林に覆われた斜面であった。そしてその最奥にはこの土地の神の社が鎮座しているという静かな主張として、山道の入り口には古ぼけた鳥居が屹立していた。この参道はハイキングコースとして愛用されているらしく、きれいに整備されていて歩きやすい道だった。木漏れ日が落ちる緩やかな坂を、二人は黙々と登っていた。単純運動に没頭していくうちに、零は不思議と気分が晴れやかになってきていた。体を動かすことは嫌いじゃない。汗を流すことで体内の老廃物が発散されていく心地になって、新しい酸素を吸えば全身の細胞も新しく更新されていく気持ちになる。そんなさわやかな気分の中で、時折すれ違う地元の人らしき散策者に零は笑顔で会釈していた。彼らの目には、この奇妙な二人連れがどう映っただろう。一瞬そんな考えがよぎったが、思案するのをやめた。零自身にもよく分かっていないのだから。

境内にたどり着くと、零は早速あたりを見渡した。森林のなかにぽっかりと開いた、あまり広くない平地に、何の変哲もないこじんまりとした社が中心を占め、そこへ続く石畳の道の脇には、おそらく事務所であろう建物と、土産屋らしき出店があった。人気はなく、活気も感じられない。祭りの時期になればここも人で埋め尽くされることがあるのかもしれないが、今現在はカラスがたわむれにひと鳴きして、余所者の二人を木の上から睨みつける程度の歓待しか受けられなかった。ここまで来たからには、挨拶をしておかねばと零は境内を進んで賽銭を放り、鐘を鳴らした。がらんがらんという音が静寂を無粋に割り開いた。簡単な儀礼を済ませたあとは、先ほどから気になっていたとなりの建物に足を向けた。表が解放された簡素な店舗の中に、何年も放置されているような既製品の土産物が申し訳程度に並んでいる。色あせたそれらのそばに、社務所とつながった窓口兼精算所がある。そこには様々な種類のお守りが並べられていたが、人は居なかった。なぜこんなところにこのような店があるのか、採算は取れているように見えないし、奇妙な感覚が拭えなかった。日陰になっていて見えない店の奥に、思い切って零は足を踏み入れてみた。

そこに並んでいたのは、流木だった。片手で握れる小さなものから、大人でも抱えきれないような大きなものまで、所狭しと並べられていた。おそらく麓の浜に打ち上げられた数々であろうことは察しがついた。参詣したときは気にも止めなかったが、ここは漂流物を祭る神社であるようだ。陳列している流木ひとつひとつに、ご丁寧に値札がついている。長年の風雨にさらされて、黒く日に焼けた肌はきれいなものだった。しかし、零が一番に目を引かれたのはそれらではない。

壁にかけられた楕円形の生き物の剥製、海亀がそこにあった。黒に近い鼈甲色の甲羅が、薄暗がりの中で流木とは違う鈍い光沢を放っているのが異様であった。昨日自分が何気なく思い浮かべた生き物と、思いも寄らない遭遇をして、零の胸は不思議な高揚を得ていた。

この発見に思わず後ろにいるはずの連れを振り返る。だが、板倉はとうに興味を失っていたようで、店の外でこちらに背を向け煙草をふかしていた。何も気づいていない板倉に、零はこの出会いを報告しようかと思いかけたが、やめることにした。もう一度海亀を見上げる。亀は上を向いていて、視線が交わることは決してなかった。なんだか笑い出したい気持ちになった。出会いの挨拶と、別れの挨拶を順に心の中で亀に告げ、零はそっとその場を離れた。

 

境内を出て麓に戻り、あまり人通りの多くない商店街を二人でぶらぶらした。特に興味を引かれるものもなく、ぼんやりととりとめもないことを考えていた零が、先に立つ板倉にいつのまにか薄暗い路地裏へ導かれていることに気づいたときには、板倉に腕を取られ、どこかの店舗の壁に押しつけられていた。何も言わずに板倉の唇が降ってくる。零の両手は壁に押しつけられていて、首を振るくらいしかそれを避ける方法がない。じきにとらえられ、舌を押し込まれた。侵入してくる熱い感覚。ここ2日で植え付けられた体のうずきがよみがえってくる。さきほど小腹が空いたので買い食いしたソフトクリームのバニラの香りがふと匂った。

思えば、零はずっと板倉に振り回されっぱなしだ。零に拒否権はないとでも言うように、好き勝手に辱める。やくざとは皆こういうものなのだろうか。ふと思い出したように反抗心が零の中にわいてきた。上半身は板倉の支配下だが、足は自由だ。少しは一矢報いてやりたい。零はおもむろに片方の膝を持ち上げた。板倉の内ももをなぜるように、ゆっくりと上へ進む。板倉が一瞬反応したのがつながっている口から感じられたが、どちらも行為を中断しなかった。持ち上げられた零のももが、男の股間にぴたりと当たる。当てたまま、小さく上下に動かしてそこにあるものに刺激を与える。いざこんな動きをしてみると、にわかに零の胸に羞恥がわいてきたが、零の舌を吸う板倉の動きが変わらないのにもむっとして、自分も板倉の股をももで擦り続けた。続けていると、何だか頭の芯がぼんやりして、身体の中心がほてってくる気がした。裏路地とはいえ屋外で、男二人がこんなことをしている恥ずかしさと、むずむずするような性感がないまぜに熱されていく。こんなのはいけないと、零の頭の片隅で警鐘が鳴ったが、膝の動きも、板倉の舌に応える動きもやめられなくなっていた。

こんなことをする自分は、普段の自分ではない。あり得ない。知らない土地の空気にあてられて、熱に浮かされているだけだ。そうでなければ、夢を見ているに違いない。

金属の扉がきしむ鋭い音で、零ははっと我に返る。板倉の肩越しの視界に、向いの店舗の裏口からゴミ袋を持って店員らしき人物がふらりと現れるのが見えた。その人物はすぐにこちらに気づき、何を思ったか知らないが慌てたように中へひっこみ扉が閉じられた。その刹那のあいだ、零は石のように硬直したままだったが、いつの間にか板倉は身体を離していた。急速に熱が冷やされ、夢を見ているような気分はすっかり覚めていた。二人のあいだの空間を、一陣の海風が通り過ぎた。その風に行為の余韻も連れ去られてしまったようだ。予期せぬ金属音による中断は、糸の切れた凧のようにここ数日さまよっていた零の意識にも着地点をもたらした。

「帰ろうぜ」

煙草に火を灯した板倉の背中にそう投げかける。旅館へ、という意味ではもちろんない。板倉は吸い込んだ煙をもったいぶって吐き出した後、そうだな、とつぶやいた。

 

 

日常へ帰る道をゆく板倉の車の助手席で、零はいつの間にか眠っていた。はっと目覚めたときには、見覚えのあるビル群の風景が車窓の向こうで前から後ろに流れていた。すっかり暗くはなっていたが、いつもの理性的な世界に戻ってきたという安直な安堵感を得ると同時に、まだ潮風のにおいが残る車内から今すぐ飛び出したい衝動が生まれた。

「ここでいい」

焦りによってみっともなく声が震えていた。怪訝そうな板倉に停車するよう要求して、タイヤがまだ完全に停止するまえにドアを開け放つ。このままこの男のとなりにいて、またあんな変な気分になったらたまらない。あれは、そう、一時の気の迷いというやつだ。そんな思いはあの夢の世界だけで十分で、この現実世界では起こりえないことのはずなのだ。板倉がどういう魂胆をもっているか知らないが、これ以上良いようにはさせない。焦りのような恐れのような感情が、零を追い立てて落ち着かせなかった。あいさつもそこそこに、颯爽と座席から滑り降りる零の背中に、板倉の声がひとつ貼り付いた。

「またな」

 

街頭に照らされた夜の道を、開放感に包まれながら零が歩いていたとき、携帯電話バイブ音が静寂を切り裂いた。立ち止まり、いつもの動作で携帯を開くと、メールが届いていた。画像が一枚添付されただけの、本文は空のメールだった。不審であるが、何かの予感を感じて、零の指がひとりでにボタンを押し、画像を開いた。画像を目にした瞬間、心臓がどくんと跳ね上がる感覚で零は身動きがとれなかった。

それは、零の写真だった。あの伊豆の砂浜で、海風に煽られながら歩いていた零の後ろ姿の写真だ。
すでに零の中で遠くなっていたあの異空間が、急速に零の目の前に蘇った。板倉の車からはすでに遠くにいるのに、思わず周囲を見渡した。撮られていたことに全く気づいていなかった。板倉にメールアドレスを取得されていたことにも。零はあの世界から何ひとつとして持ち帰ったものはない。意識的にか、無意識的にか、物的証拠がなければあれは夢だったと思えるように。それなのに、板倉によってもたらされたメールは、紛れもないあのたゆたうような快楽の世界の証拠物件だった。

ただの小さな画像を見ただけで、零は激しい鼓動を止められずにいた。言葉で何か言われるよりも、この自分が被写体に納められた写真一枚で、あのとき板倉が何を考え、感じ、そして今何を求めているのか、むきだしのままの意志が零の内に突き刺さってくるように思えた。それはとても熱く感じて、冷めていたはずの零の内側を再び燃え上がらせようとしている。

なかったことにするのは簡単だ。メールも画像も消去してしまえばいい。だが零の指は硬直したまま動かなかった。なかったことにしてしまうには、零の身体と精神の中に穿たれたものは大きすぎた。写真一枚の告白によって、こんなにも揺さぶられてしまうほどに。葛藤と、それ以上の強い感情が、せめぎ合いながら零の指をゆっくりとボタンの上にすべらせた。