「春の山犬」(2021.05) - 4/5

 

雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)

宿儺の所有するプライベートハウスはいくつかあるが、恵を招き入れたのは伏黒家と同じく平屋タイプの邸宅だった。ただし床面積は十倍は広い。築年数も新しい。設備は全て高機能で至れり尽くせりだ。

ここを選んだのは、近代建築に日本式の建具を取り込んだ、和モダンと呼べるデザインで宿儺が気に入っているというのもあるが、恵の在籍する大学から一番近いという利点もあった。〈山間〉からは通学に電車で片道一時間半もかけていたと言うから、利便性はかなり改善するであろう。

よって、この邸に恵が住むことは、恵にとって快適なだけでなく、恵を掌に入れて一分でも長く堪能したい宿儺にとっても大いに快適という、いいことずくめである。

しかし、来月からの復学の準備を始めながらも、恵は心ここにあらず、といった顔をしていた。それは無理からぬことであった。あの春分の夜に、生まれたときから恵を支配していた〈山間〉の旧い物語が消滅してからまだ間もないのだ。

 

宿儺が最初に〈山間〉を訪れた二月のあの日は、もうずいぶん昔のことのように思える。

宿儺は大いなる遺産を継承した王国に君臨していたが、それにすっかり飽いていた。そんなときに、先代の縁故だという者たちから風変わりな手紙が届いた。要約すると、何やら宿儺に頼みたい役目があるという。謁見にやってくるならともかく、こちらから出向いてこいと言うのは身の程知らずな奴らだが、退屈していたところであったから、寛大な心で足を伸ばしてみることにした。

初めて訪れる〈山間〉の町で宿儺を待ち構えていたのは、いかにも農耕民族らしい、牛のように素朴で鄙びた老人たちだった。そんな者たちの口から、”闘犬賭博”という荒っぽい単語が出てきたのは、意外に思えて少し愉快であった。だがそれだけだ。

何やら昔話に基づいた秘祭であるらしく、〈両面〉という屋号であった元神官の家系の末裔―――つまり宿儺に、胴元をつとめてほしいという嘆願を、老人たちはうやうやしく述べた。しかし、平たく言えば、単なる村祭りの仕切り役だろう。宿儺がわざわざ出張るほどのものでもないし、関心もそそられない、という趣旨のことを言って、にべもなく断った。

とはいえ、時代錯誤な響きをもつ”闘犬”というものには一抹の興味がわいた。山犬の子孫であるという獰猛な犬の尊顔をひとつ拝んでから帰ろう、いや、退屈極まりない家には帰らずに、いい機会だからそのままどこかへ旅にでも出てしまおう。そんな思いつきを実行するために付き人たちを先に帰らせて、宿儺は夜陰に乗じて〈犬屋〉と呼ばれる家を見に行った。

どんな凶悪な顔をした犬かと思えば、邂逅した渾は老いた賢者のような眼をしていた。それでもその強さは伊達ではなく、宿儺はその老練な牙に遅れを取った。宿儺に傷を負わせ血を流させた者への報復は死あるのみだが、それでも犬畜生の分際で宿儺に牙を届かせた雄姿に敬意を表して、実力の上下を分からせてやるだけに留めてやった。

結果として、その宿儺の判断は大正解であった。もしそうしていなければ、そのあとやってきた〈犬屋〉の無愛想な青年―――伏黒恵の膝枕で、山犬の神話を語り聞かせてもらうという明け方の秘め事を享受できなかったであろう。そして宿儺は、旅に出るのはやめて〈山間〉に留まることにした。

 

ある日突然、宿儺に自宅のなかへ押し入られ居座られた恵はしかし、普段から闘犬を相手にしているせいか物怖じせず、忍耐強かった。そういうところも好ましいが、宿儺が伏黒家に居続けた最も大きな理由は、恵が語る寝物語に魅せられたからだった。

闘犬の祭りについても、その起源の物語についても、〈山間〉についても、すでに老人たちから概要は聞き及んでいた。だが恵の口を介して語られたとき、それらは全く違う色合いをもって宿儺の耳に響いた。皮膜で隔てられているはずの虚と実が、時間の矢で引き裂かれたはずの過去と現在が、いつの間にか境界を破って混ざりあった世界に放り込まれたような奇妙な感覚。

なぜ恵の語りにそんな作用があるのか。それは、恵のなかで古の神話が体温を維持し、息をしているからだ。「闘犬は時代遅れだ」と口では嘯きながら、それに魅入られていることはその目が語っていた。神が在るから人は神を信じるのではなく、人が信じるから神は在る。恵があの老犬を昔話の山犬の子孫だと語るなら、渾はまさしく神の犬なのだ。

そして恵もまた、血によって継承した王国を持っていた。それは宿儺の持っている王国に比べればあまりにも小さく、領地は古びた犬舎、領民は老犬一匹であったが、それらを恵は心底から愛していた。その一点においては、宿儺よりもはるかに優れた王だった。そして愛するがゆえに、それが滅亡寸前であることを哀しんでいた。

恵の寝物語の裏にある、その真に迫った悲哀にこそ、宿儺は耳を傾け愛でていた。風前の灯火であるその王国が瓦解する瞬間を、神話が息絶える臨終の時を見てみたかった。いっそこの手で壊してやろうかとも考えたが、観客が下手に茶々を入れてしまっては有終の美が台無しになるだろう。

このように、宿儺はあくまで物語の外側から恵を鑑賞し続けていた。そのつもりだった。

 

何かおかしいと感じ始めたのは、恵によって導かれた〈賭場〉で場外乱闘をする羽目になったときだろうか。ある夜などは、らしくもなく己の身の上話を物語のようにして語らされていた。極めつけは、一度断ったにも関わらず、闘犬賭博の胴元に担ぎ上げられ、祭りの仕切りを任されることになってしまったことだった。だが、これら全ては―――矛盾するようだが―――宿儺自身の意志でもって積極的に行ったことであった。

観客であることを意識していたにも関わらず、〈山間〉という舞台でひと月過ごすうちに、いつの間にか物語の歯車として取り込まれていた。古から、人間の原始的な部分を支配し続けてきた神話が持つ吸引力は、どうして中々侮りがたい。

否、それは少し違う。宿儺を神話のなかへ引きずり込んだ真の犯人は、伏黒恵という人間だ。

神と同様、物語は人に語られることで力を発揮する。恵は初めて宿儺に寝物語を語ったときから、あの強かだった山犬のように、時間をかけてじわじわと牙を立て、好機の瞬間を見定め、宿儺の肉を食らっていったのだ。この俺を罠にはめたのだ。例え、本人にその自覚がなかったとしても。

だがしかし、不本意ではあるが、語りによって構築された恵の領域に没入していく感覚は、不快ではなかったのだ。

そうして支度が整い、最後に恵が宿儺に与えた役割は、〈山間〉の神話を終わらせることだった。〈両面〉として、胴元として、不可解な集団幻覚に弄されつつも、宿儺は完璧にそれをこなした。宿儺の期待通り、あるいは何かの意志の望み通りに、恵の小さな王国は終焉を迎えた。

だが、宿儺が何より観るのを楽しみにしていた恵の滂沱の涙は、友人らしき小娘と小僧が邪魔をしに来て、全てを愛でることができなかった。恵のためにやってやったというのに、見返りが乏しいとは何事だ。

本来の宿儺は、いかなる存在にも支配されず、利用されたりなどしない。そんな男に、ひとつ処へ留まらせ、血を流させ、狂言回しをさせた狼藉の責任を取らせるべきだ。

だから、これまでの客演の代償として、恵のこれからをもらうことにした。舞台がはねれば追い払えると思うなら、それは大間違いだ。宿儺はまだまだ食い足りていない。恵が宿儺の肉を食らっていたとき、宿儺だって同じことをし返していた。恵の肉は、滋味の薄そうな見た目に反して、血のしたたるような情念の味がして美味であった。同じ美味をまた味わいたければ、同じ肉を食らうしかない。

恵はからっぽになったと言っていたが、抱き上げてみればまだその身は重さが残り、血も十分に通っていた。多少欠けてしまった部分は、また宿儺の肉を食わせてやって補えばいい。そして恵もまた、再び宿儺を食らうことを欲していた。

肉を食して飲み下せば、もう体から切り離すことはできない。お互いの肉を食らった者たちは、お互いの一部と同化したといっていい。それは呪いでもあり、縁(えにし)でもある。この世のどこかの誰かにとっては、それを愛などと宣ったりするのかもしれない。

 

 

そうして宿儺は〈山間〉から自分の領地へ帰ってきたが、もう退屈ではなくなった。手づから拐ってきた若い獣が、新しい環境に馴染んでくつろぐようになるまでつぶさに見守らねばならない。

宿儺の邸に運び込み、好きに過ごせと言葉で伝えても、慎重な性質の恵は、安易に地に足をつけられない様子だった。落ち着きどころを見出せないのは、これまでの人生での拠り所を失って空洞ができ、身体の重心が定まっていないからだ、と宿儺は考える。空き腹を満たさねば、飢えた犬のようにうろうろ徘徊し続けることになる。

さしあたって恵は、昼は実家から少ない荷を引き上げたり大学へ手続きに行ったり等、生活を整え始め、夜は宿儺の邸で過ごした。だから宿儺は、毎晩恵に肉料理を拵えて与え、そのあとは恵をじっくりと抱いた。まずは飢えを満たすことが肝要だ。

後者については、まぐわうこと自体が目的ではなく、俺で埋めてやると宣言したことを実行するための手段のひとつだ。断られれば別の手段を考えたが、恵は宿儺の愛撫に応えて、新たな感度を芽生えさせ、深めていった。

そんな日々を過ごして一週間ほど経ったころ、恵が熱を出して起き上がれなくなった。

持病もなく健康そうにみえていたが、どこかから悪い病をもらってきたのだろうか。生まれてこのかた病気などしたことのない宿儺は、こういう事態の確たる対処法を持っていない。仕方なく裏梅に医療の手配を一任した。

やってきた医師は恵を診て、簡潔に診断した。過労による発熱、だという。

原因に心当たりは……ないこともない。夜伽の最中に、恵が宿儺の好きな声で宿儺の名を呼んだり、達したときにかすれた悲鳴を上げたり、そういう快いものを何度も何度も聞きたいという欲求を率直に満たした日もあった。いや、毎回そうだったかもしれない。どうやら藪医者ではなさそうだ。こういった発熱に薬は効かないから、ゆっくり休息させるほか対処はないという。

医師とともに邸へ訪れていた裏梅は、氷枕と数食分の保存容器を置いていった。ひとつを開けて見てみると、米と細かく刻んだ鶏肉と根野菜をとろとろになるまで味噌で煮たものが入っていた。

「雑炊です。そのまま温めるだけで食べられます。」

「……こんなもので腹にたまるのか?」

「アレンジやオプションはお控え下さい。宿儺様のレシピが美味であることは先刻承知ですが、病人には少々刺激が強すぎます。」

「……わかった。」

「絶対ですよ。」

「わかったわかった。」

まぁ、裏梅の手からなる品であれば問題はなかろう。それにしても、裏梅が主人である宿儺以外の人間に、自発的に食事を拵える姿は珍しいのではなかろうか。どういう風の吹き回しなのか。

「あの方がご健勝であられることは、周り回って私の仕事がやりやすくなることでもありますので。」

宿儺がまだ何も言わないうちから裏梅はそう回答した。優秀な召使いとは、相手の思考を先回りして察知し対応できる者のことをいう。つまり裏梅は優秀ということだ。

 

恵が倒れてから三日目の夕方、宿儺が氷枕の替えを携えて寝室に入ると、恵はすでに目を覚まし半身を起こしていた。錆浅葱色の浴衣が少し寝乱れている。以前に、宿儺の寝間着が浴衣であるのを見て「そっちのほうが楽そうでいいな」と言った恵のためにいくつか誂えたもののうちの一枚だ。

宿儺はベッドの端に腰掛け、恵の汗ばんだ髪をかき上げその額に自分の額を合わせる。どうやら平熱に戻ったようだ。ついでに口も重ね合わせて、その乾いた唇を舐めて湿らせてやる。親犬が仔犬にやるような甲斐甲斐しいことをしてみるのも、恵が相手なら中々楽しい。大人しく宿儺の世話を受けていた恵がつぶやく。

「腹減った。」

「雑炊は無くなったな。」

「もう元気だ。アンタの飯が食いたい。」

などと、可愛げのあることを言ってくる。汗を流してから来いと言い置いて、宿儺は台所で食事の用意に取り掛かった。

宿儺の料理には、様式や国柄の垣根がない。自身の舌が好いと感じた素材、調味料、香辛料、調理法を天衣無縫に組み合わせて絶妙なバランスでまとめ上げる。だから、肉料理であるという以外に分類しようのないレシピばかりだ。今日は何を拵えるか、宿儺は少し考え、恵に初めて振る舞ったあの牛肉のスープにしようと思い立った。汁物なら病み上がりにもいいだろう。特製ブイヨンはあらかじめ冷凍保存してあるから、さほど時間をかけずに提供できる。

数日ぶりに恵に己の料理を食わせてやれることに、自分が存外喜び勇んでいるのを宿儺はうすうす自覚していた。この新しくも好ましい生活を、ゆっくりと味わっていくはずが、加減を間違えて骨まで食べ尽くしてしまいそうだ。今後は少なくとも、恵が寝込んでしまわない程度に抑えなくては。

湯浴みして着替えてきた恵は、テーブルに置かれたそのスープをみてふと笑った。きっと覚えていたのだろう。

食事をしている恵の正面に座って観察すると、彼の変容が見て取れた。熱を出す前の、いや、この邸に来てからの、ふらふらと寄る辺のなかった表情がひきしまり、その身体は重心を取り戻したように見える。何か心境の変化があったようだ。怜悧さを復活させたその瞳が、ふいに宿儺を見やる。

「なぁ、頼みがあるんだが。」

ほう、と宿儺は頬杖をついて言葉の続きを待った。

「俺の父親……伏黒甚爾の行方を探してほしい。」

恵の父の話は、寝物語で聞いたことがあった。

「国内のどこにいるかもわかんねぇし、下手したら海外に行っちまったかもしれねぇけど、アンタなら探せるかと思って。金も手間もかかるだろうが……アンタは気にしねぇよな、俺のためなら。」

恵は上目遣いで宿儺を見つめる。だがそこに媚はなく、挑戦的なまなざしだった。おねだりのひとつやふたつ応えてやらねば男が廃る。

「そうだな、オマエの頼みならやってやるが、急にどうした?今になって、親子の情がわいたわけでもあるまい。」

「そういうんじゃねぇ。会いたいわけでもねぇから、連絡を取れればそれでいい。―――〈犬屋〉の家業が無くなったことを伝えてやんねぇと。」

一瞬、寂しげな色が恵の目に宿った。

「一応まだアイツが家長だからな。これはけじめだ。」

そういう理由なら宿儺も理解できる。だが次に恵が発した言葉は腑に落ちなかった。

「それに、アンタのことも話しておこうかと。」

「俺のこと、とは。」

「そういや、虎杖と釘崎にもまだだったから言っとかねぇと……まぁ、虎杖には痴話喧嘩見られちまってるから察してると思うが。〈山間〉で世話になった人たちにも、ろくに引っ越しの挨拶もしてなかったから、ついでに……」

怪訝な思いが顔に出ていたのか、恵はなんだよ、と宿儺を睨んだ。

「それは必要なことか?」

そういうことを喧伝するタイプには見えなかったが。成人しているのだから、どこでだれと暮らそうが、他人の認知など必要あるまい。煩わしいとしか思えない。

適切な言葉を探すように、恵はしばし考えてから言った。

「予防線を、張っておこうかと。」

「予防線。」

「ここに来てから、ずっと考えてた。前みたいに、もしアンタがまた俺をだましたり、裏切ったりしたときはどうしてやろうかと。」

宿儺としては、だましていたつもりはなく、裏切った覚えもないのだが、ひとまず黙って聞いておく。

「まず、俺がひどい目に遭ったと話して聞かせれば、虎杖と釘崎は必ず俺に加勢してくれる。虎杖は雄の羊も担げるくらい腕力が強くて頼もしいが、釘崎も怒るとまた別のベクトルでヤバい。高校時代に付き合ってた彼氏が浮気したとき、アイツは金槌と釘を持ってきて、ソイツの……いや、今この話はやめておこう。」

ソイツは一体どうなったのか。少し気になる。

「甚爾の野郎は……俺がどうなろうが気にしないだろうが、賭博の次に暴力沙汰が大好きだ。暴れる機会を与えて煽ってやれば飛んでくるだろう。俺のかわいい渾に手を出した奴にお礼参りしねぇと、とか言うだろうな多分。」

恵は確信を持った口調で語り続ける。

「それから、犬たちだ。祭りが終わっても、闘犬たちがいなくなったわけじゃない。まだ若くて元気な奴らも多い。みんな〈山間〉の人たちに渡してしまったが、俺が事情を話して頼めば心良く貸してくれる。個体では渾ほどの力はなくとも、かなりの頭数が集まればアンタでも面倒な相手だろう。」

恵が企てている計略を一通り聞いて、少し考え、宿儺は言う。

「それは、この俺を脅しているのか?」

恵は涼やかな目をして、にっと笑った。

「アンタがそう考えるなら、予防線としては十分だな。」

語り終えて平然と食事を再開した恵に、宿儺もにやりと笑い返してやった。

どうやら、かつて恵のなかにあった物語は、いつでもその牙を復活させることができるようだった。だがそれの出番が来ることは無いだろう。もとより、宿儺は伏黒恵を蔑ろにする気など更々なく、そして今は尚一層、この性悪な獣を可愛がってやりたくなった。加減してやろうという理性が融解しそうになるくらいに。

しかし、そう考えつつも、宿儺はあの朝の記憶を呼び起こしていた。割れたガラス片と水滴が舞い散る向こうに見た、苛烈に燃える双眸。鮮やかな怒りが美しかったあの光景を、もう一度見てみたくないと言えば嘘になる。

どちらもとても美味そうにみえる両極的(アンビバレント)な考えを、宿儺はひそかに胸の内で吟味しながら愉しんでいた。