「春の山犬」(2021.05) - 3/5

 

雀始巣(すずめはじめてすくう)

玄関の呼び鈴が鳴った音で、恵は目を覚ました。

日は高く昇っていて、ベッドのなかの裸の体は温かくけだるい。幻聴であってくれと願ったが、もう一度チャイムが家中に響いた。注文していた犬用サプリが届いたのだろうか、とぼんやり考える。

となりにいるとらはすでに起きていたようで、玄関の方角を見て目を眇めている。もしかすると、〈賭場〉でそうだったように、呼び鈴が鳴る前から来訪者の気配を感じていたのかもしれない。

「俺が出るか?」

「……ざけんな、俺が家主だ。」

こんなやくざのような男が突然出てきては配達員が可哀想だ。恵の上に乗っていた重たい腕をどかし、きしむ関節を動かして部屋着に袖を通す。まだ半分目が閉じたまま引き戸を開けると、そこには虎杖と、おかっぱ頭の和装の人物が立っていた。

「失礼致します。」

先を制すようにその謎の人物が言い放ち、軽い会釈をした後流れるように三和土で草履を脱いで廊下にあがった。慇懃だが有無を言わさぬ行動に面食らって、眠気が覚めた恵が口を開く前に、廊下の奥から声が聞こえた。

「裏梅か。」

シャツとジーンズを身に着けたとらが寝室からのそりと現れ、そのまま足を止めることなく台所に入っていった。裏梅と呼ばれた者は、さっと恵たち二人を振り返って早口に言った。

「あなた方は累が及ばぬよう、そこにいなさい。」

そして台所の戸口に立ち、一礼する。その無表情の横顔は決然としていた。

「宿儺様。」

「ひとりか、豪胆だな。」

「この首ひとつで済むのであれば。」

「無粋は承知のうえだと。」

わけが分からぬまま玄関に取り残された恵たちからは、台所のなかの様子は見えない。だがぴりぴりとと冷えた空気感がここまで伝わってくる。

「宿儺様がお隠れになってすでにひと月近く経っております。烏滸がましくとも、我々は主の御心の行く先を確かめねばなりません。罰はそのあとでいくらでも。」

この性別不詳の人物はとらの部下か何かなのだろうか。

ふと虎杖を見ると、家のなかを指差して、衝撃を受けたように口をぱくぱくさせていた。

 

「ふ……伏黒、さっきのあいつ、〈両面〉の当主じゃん……!」

 

思考が停止する。虎杖の言葉の意味をすぐに理解できない。

「は?」

「裏梅さんの言ってた通りだ、なんでアイツここにいんの!伏黒無事だった?」

やっと脳細胞が刺激の伝達を始める。虎杖は例の会合に参加していたから〈両面〉の当主の顔を知っている。その会合は、恵が犬舎でとらに初めて出会ったあの日に開かれていた。あのときとらが言っていたことを思い出す。

―――大昔の山犬の血を継ぐ大きな犬がいると聞いて、ひと目見たくてやってきた。

同時に、翌日虎杖が証言した内容も脳裏に浮かぶ。

―――でも、〈両面〉さんはあんまり興味をそそられなかったみたいだったな。わざわざ田舎くんだりまで来て香具師の真似事をする気はない、みたいなこと言ってた。

なんだそれ。

恵は体温がすっと下がったのを感じた。

あれ?なんか首んとこ噛まれてない?という虎杖の言葉は、徐々に遠のいて恵に届かなかった。頭の内がぐらぐらして、鼓膜が音を拾う余裕がないからだ。それでも体は踵を返し、冷えた空気を突破して、裏梅なる人物の脇をすり抜け台所に入る。

そこではイスに座ったとらが、のんきにコップで水を飲んでいた。そのそばに恵は仁王立ちする。ここひと月二人で過ごした日々を想起する。とらはいつだって不遜な笑みを浮かべて恵を見ていた。

「これは確認だが、おまえが〈両面〉なのか?」

「俺も知らなかったが、どうやらそうらしい。」

とらは―――宿儺は、悪びれる様子もなくそう返した。

「そうか。」

恵は、目の前の悪党の手を取る。そのなかにあった水の入っているコップを取り上げる。

そのまま、出来得る限り速く強く、宿儺のこめかみに叩きつけた。鋭い破裂音をあげてガラスと水滴が飛び散った。

「ずっと俺をからかってたわけだな。」

屈辱、という感情がごうと恵の臓腑を焼く。

こいつは全て知ったうえで、田舎でわびしく暮らす犬とその飼い主を物見遊山しに来たわけだ。もとよりなけなしの自尊心が、許しがたいところまで踏みにじられていたことに、恵は気づいてすらいなかった。

「俺のつまらねぇ話を聞いて、腹ん中で笑ってたわけだな。」

全力で殴打したのに宿儺の体勢は動じなかった。それでも、その髪と顔半分は水で濡れそぼり、ガラスで切れた皮膚から血がこぼれている。

「だましていたつもりはないが……この状況は致し方なし、だな。」

「これ以上しゃべるな裏切り者。―――殺してやる。」

こいつがどう考えようが、恵のなかの法がこいつは極刑だと叫んでいる。あの午後に〈賭場〉で恵が与えた言祝ぎは、その誠心は、偽りによって穢されていた。きっと〈山間〉の神もこの私刑を許してくれる。

恵は食器棚の扉を引きちぎらん勢いで開けた。甚爾が炭酸水をがぶ飲みするときに使っていた特大ジョッキを掴み出す。これなら、今度こそ頭蓋を粉々に叩き割れる。

そうして振り上げた腕を、後ろから虎杖に掴まれ止められた。

「伏黒ー!ダメ!それはマジで死ぬって!」

なぜ止めるんだ。友達なら俺が成すべきことを暖かく見守っていてくれ。そう言いたかったが口からは怒れる犬のような唸り声しか出なかった。

腕を振り払おうともがいている隙に、宿儺が立ち上がった。逃げられてしまう、ととっさに思ったが、その手は恵を虎杖の手から引き剥がす。更に正面から恵の腰を抱えこみ、ひょいと持ち上げたせいで恵の足裏が宙に浮いた。

重心が傾き、宿儺の顔が間近に迫る。あごまで伝った血を拭いもせずに、目を輝かせて宿儺は言った。

 

「〈賭場〉を開くぞ、伏黒恵。俺が胴元をつとめてやろう。」

 

暫時、恵は呼吸を忘れた。感情の回路が急停止する。

「この呪われた血筋など糞食らえだが、―――それが俺をオマエのもとに導いたというのならば、多少は先祖に感謝してやってもいい。」

一瞬だけ、この男に似合わない柔らかな色が瞳に宿った気がする。

「この〈山間〉中の人と金をかき集めて、犬たちを闘わせるぞ。いいか、オマエのためだけに、やってやる。」

恵に対して強く言い聞かせるように言葉を区切って、こつりと額をくっつけられた。

「……やるのか。」

「そうだ。腹をくくれ。」

〈賭場〉が開かれ、渾が闘う。それはきっと最後の闘いになる。恵は絶望した。

「……そうか。」

そして同時に、深く安堵した。

宿儺は、やると言ったことは必ずやる男だと恵は知っている。人の形をした時の氏神(デウス・エクス・マキナ)。恵は内外すべての抵抗をあきらめた。〈山間〉の血の宿命を受け入れることを決めた。

そうして、恵のなかでずっと張り詰めていたものが、宿儺によって音もなく破裂させられた。そして、懊悩から開放されたことを悟った。

強張っていた体中の力が抜けていく。昨夜の閨事に加えて、今朝の感情のアップダウンの激しさに恵は心底疲れてしまった。こいつには、いつだって調子を狂わされる。

なぜ握っていたのかも忘れてしまったジョッキを床に落として、宿儺の首に腕を回し、全体重を預けた。それでもびくともしない大きな体もまた、恵を強く抱き返した。

周囲の世界を見失ったふりをして、心地よい倦怠感と開放感のなかに、恵はしばしのあいだ浸っていた。

 

それから、宿儺は裏梅を伴って伏黒家を出ていった。五日後に迫っている春分の祭りの準備を始めるために。

割れたガラスの片付けを手伝ってくれた虎杖も帰路につく。虎杖がここへやってきた理由は、宿儺を説得にきたらしい裏梅が、交渉を決裂させ修羅場に発展したとき、虎杖の知己である恵を無事に脱出させる役回りのためだったらしい。現実には、修羅場をつくり出したのは恵のほうだったが。

「じゃあ、俺も帰るな。」

「すまん虎杖、取り乱して……」

恵の人生で一、二を争うほどのみっともない姿をこの友人に見せつけてしまって、申し訳ない思いでいっぱいだった。

「いや俺はヘーキだけど、ちょっとばかし伏黒の顔が怖かったな~……笑ってねぇ笑い顔っつーか、伏黒のとーちゃんが乗り移ったかと……」

「う……!それ以上言うな……クソ、最低だ……」

「そんなにショック?」

 

 

宿儺がいなくなり、再びひとりでベッドを使えるようになった恵の睡眠は、また浅く短くなった。しかし今度は不安によるものではなく、来る日へ向けた期待によるものだ。小学生が遠足を楽しみにして眠れなくなるのと同じだ。

携帯端末の類を持っているように見えなかった宿儺とは、連絡先の交換などもちろんしていない。だから祭りの準備の進捗を聞くこともできなかったが、したいとも思わなかった。奴が何かをやると決めたのなら、手際よく、ぬかりなくやり遂げるであろうことを、恵は確信していた。

それよりも問題は自分と渾のほうだ。過去の甚爾がやっていた闘犬の訓練を、見様見真似で渾にやらせてみるか迷ったが、無駄に体力を削らせる結果になってもよくない。ただでさえ老化による体力の低下が懸念の種である。といっても、日々健康管理を徹底していたから、贅肉などはついていないし、筋力も一定以上を維持している。ベテランの闘犬である渾の経験値を信頼して、いつも通りの日課をこなすにつとめた。それでも、恵の態度の変化から〈賭場〉が開かれることを察知したのか、渾は落ち着きを取り戻し、闘いへ向けて精神を研ぎ澄ましているようにもみえた。

春分の祭りが開かれることは、あれからすぐに〈山間〉中に伝わり、春の芽吹きのように一斉に活気が湧いた。レストランで仕事をこなしているあいだも、客たちのあいだで祭りの話題を何度も聞かない日はない。

誰もがそわそわと一日一日を過ごしていた頃、伏黒家に裏梅が訪ねてきた。

「当家の主人が大変お世話になりました。これは見舞金です。」

ローテーブルに置かれたのは分厚い封筒。なかをのぞくと帯封のついた札束が二つも入っていて、恵は丁重に押し返した。

「いや、お気になさらず……」

「軍資金としてご活用下さい。此度の横綱戦の賭金はおそらくこのくらい必要になります。」

渾が闘犬に参戦するなら当然横綱戦になるが、しょせん不景気の最中の小さな賭博だ、今までこれほどの金額が必要だったことなどない。裏梅の言葉に半信半疑だったが、宿儺の仕切る賭博がどういうものになるのか想像がつかないので、ひとまず預かっておくことにした。どのみち、甚爾の送金が絶えた今、これまで通りの賭金であったとしても、自力での捻出が難しかったから、本音を言えばとても助かる。

「それから、私個人としても、先日の礼を申し上げておきます。半ば死を覚悟して乗り込んだのですが、貴方のお陰で私への制裁はうやむやになり、命拾いしました。」

そうは言われても、あの場で制裁を受けるべきだったのはどう考えてもアイツしかいなかっただろう、と思うので礼を言われる筋合いではなかった。

「正直なところ、あの方はもう戻られないと思っていました。宿儺様が家を捨てるとお決めになったのなら、誰にも引き止めることはできません。なにせ一族最強ですので。」

静かにそう言って、裏梅は窓の外へ向けていた目を恵に戻した。

「でも、お帰りになられた。―――なので、我々は貴方に恩があります。貴方が思う以上に多くの者たちの恩が。」

恵は戸惑いながらも言った。

「でも俺、貴方がたの主人を殴っちゃいましたけど。」

「……アレを目撃できたのは僥倖でした。当家の者に話して聞かせても、誰も信じないでしょうから。あの方の血を見て尚生きていられる人間がいるとは……」

長居をしてしまいました、と裏梅は立ち上がる。

「此度の祭りは、きっとよいものになります。」

 

 

そうして、春分の夜がやってきた。

 

他の闘犬たちと顔を合わせて気を荒立てないよう〈賭場〉の一隅に設けられた幕屋のなか、恵は渾と向き合っていた。体調は万全。幕屋の外から絶え間ない喧騒が聞こえてきても、その円熟した瞳を動じさせることはなかった。渾は覚悟を決めていた。ならば、恵も覚悟を決めねばならない。

「伏黒、入っていい?」

その声に是と応えると、いつもと格好が違う虎杖と、続いて釘崎が入ってきた。

「見てよ伏黒、馬子にも衣装とはこのことね!」

今夜の虎杖は、しっかり糊のきいた濃紺の半着に黒鳶色の袴を着けていた。足元もちゃんと足袋に草履だ。普段のパーカー姿に比べればずっと、由緒ある牧場主の跡取り息子らしくみえる。

「俺はともかく他の奴らに失礼だろ。これ着てんの俺だけじゃねーし。」

「なんでよ?」

「警備員つーかスタッフつーか、人の流れを誘導したり、なんかトラブル起きたら対応する係なの。〈山間〉の若いの何人かかり出されてんだよね。」

「ボラで?」

「報酬出るって!」

「ならよし、キリキリ働け!」

虎杖は感心するように腕を組んだ。

「最初はそんな仕事要る?って思ってたけど、これは要るわ。めっちゃ人集まってんじゃん。」

そう、かつて見たことのないほど、〈賭場〉が人で埋まっている。

これまで恵が見てきた闘犬賭博は、最も盛り上がったときでも、見物客含めて百人にも満たなかった。だが今夜はその三倍以上はいるようにみえる。土俵の中での闘いを肉眼で観戦できる、ぎりぎり上限の人数規模だろう。いつもの闘犬愛好者たちだけでなく、男も女も老いも若きも入り混じっている。

観衆だけではない。篝火も今までより大きく、設置数が増えていて昼のように明るい。地面はきれいに均され、土俵の周りにはいつもの筵ではなく紫紺の幕が張られ、その外にはより多くの人間が観戦できるよう雛壇が組まれている。シワひとつなく張られた天幕から下げられている番付表も、流麗で堂々とした墨書。酒と軽食を配る屋台のようなものまである。さらに言えば、ここに来るまでの参道や間道さえも、通りやすいよう明かりが灯され整備されていた。

たったの五日で、想像以上に万全なお膳立てができていた。一体どれだけの金と人と手間がかけられたのだろう。

オマエのためだけにやってやる、とあの日宿儺は言っていた。今更になって、恵はむず痒くなって堪らない。こんなにも重みのある言葉だとは思っていなかった。

気を紛らわすために気になっていたことを釘崎に問う。

「祭りには興味ないって言ってなかったか?」

わざわざ今夜のために〈山間〉に戻ってきたようだ。

「だって、待ちに待ったアンタと渾の晴れ舞台でしょ。見守ってやんなきゃね。」

そう言って片目をつぶってくる。となりで虎杖も晴れやかに笑っていた。

この二人はずっと前から、恵の秘めた願いをよくわかっていたのだ。きっと彼らには一生敵わないのだろう。

「あ~どっかで喧嘩とか起きねーかな~!仲裁しつつもできるだけ長引かせて楽しみたい!」

「野次馬する準備しとくわ。」

〈山間〉の人間らしい物騒なことを話しながら二人は幕屋を出ていった。

 

やがて彼らと入れ替わるように、宿儺が恵の幕屋に顔を出した。

彼もまた和装だったが、夜陰から現れたその姿を見たとき、恵はしばし口が利けなかった。漆黒の羽織の下は、見る者の目を射抜く絹白の袷、光沢のある紗綾形の地紋。帯は黒紅色。黒足袋。黒下駄。鼻緒は髪と眼に合わせたのか赤色。黒と白は〈山間〉においても神聖な色だ。それに宿儺自身がもつ引力と相まって、冥府から死神が訪ねてきたような恐ろしい迫力があった。まるで十年も前から胴元をつとめていたというような貫禄だ。

からん、と耳を打つ下駄の歯音をひとつ立て、どうだと言わんばかりに宿儺は恵を見下ろした。

「……怖えよ、もう少し手加減しろ。」

「押し出しは強いほうがいいだろう。」

「それもだが、この〈賭場〉の手配も……」

「守るべき作法は守っているぞ。あとのことは俺の好きにやる。何だ、帰りたくなったか?」

地獄の獄卒のように意地の悪い顔をしている。礼のひとつでも言うべきかと恵は思っていたが、そんな殊勝な気持ちなどは引っ込んだ。

きっちり着付けられた着物に触れると崩しそうなので、袖から出ている宿儺の指先を己の指先でつかんで、礼の代わりに無謀とも思える宣誓をする。

「後悔はさせない。必ずいい勝負をする。」

保証する、とまでは言えなかったが。どれだけの闘いを見せればこの男が満足するかはわからない。それでも、手配の苦労が報われる程度には、この祭りを楽しんでもらえればいいと思う。

宿儺は、つかまれたのとは反対の手で恵のおとがいをすくい取る。恵の瞳のなかを検分するようにしばし見つめていたが、やがてにやりと笑って低くささやいた。

「楽しみにしておこう。」

 

今夜は渾が取り組む横綱戦の前にも、二組の勝負、言うなれば関脇、大関戦が行われることになっている。

一年近く〈賭場〉が開かれず、かつ今回の開催もたった五日前に告知されたにも関わらず、闘犬に参加できるだけのモチベーションを保っていた犬がちゃんといたことに恵は感心していた。犬の所有者たちが、〈賭場〉がいつか開かれることを信じて、日々の鍛錬を欠かしていなかった証だ。

〈山間〉における闘犬賭博は、まず犬の所有者同士が賭金を胴元に預ける。お互いに同額を積まなくては勝負は開始されない。そして勝った犬の主が賭金を総取りする。

そして見物客たちのあいだでも賭けが始まる。胴元による、それぞれの闘犬の強さをアピールする口上を聞き、勝つと思った方に金を賭ける、古来よりの単純な形式だ。賭けた方の犬が勝てば、賭金の額に応じて配当を受け取れる。

ちなみに、原則として胴元は人々から参加料や手数料等を徴収しないというしきたりがあった。のちに勝った犬の主が獲得金から心づけを渡すくらいで、つまり、胴元をつとめてもあまり儲からない。人々から尊敬と畏怖を集めるだけで事足りる、地位と余裕を持った人物だけができる役職だった。

そして今夜の賭けの様子は、これまでとかなり違っていた。関脇戦も大関戦も恵はうしろから見守っていたが、示し合わせたように金額が大きい。今回の胴元の唆しがあったのか、久々の賭けで気が大きくなっているのか、犬の主たちは過去の賭金の何倍も積んでいる。

そして、まとまった金の束を目にした周囲の人間たちも、それにつられて目が眩んでくる。初戦は慣れている観客たちだけが賭けていたが、次の闘いに移ったときには、慣れていない者たちや若い者たちも、博奕の味見を求めるように、続々と袴姿の青年たちに駆け寄り、賭けの台帳に金額を連ね始めた。

犬たちの健闘もまた、その興奮に拍車をかけた。彼らは互角の闘いをし、よく粘り、血を流しても闘志を失わなかった。胸を打つような真剣勝負。まばたきひとつすら惜しんで刮目すべき光景がそこにあることを、〈賭場〉に馴染みのない者たちも理解し始めていた。〈山間〉の人々は、犬たちが撒き散らす血を浴びることに、命が燃えるときの輝きを視ることに価値を認めて金を賭け、闘いを見守り声援を送った。

いよいよ横綱戦が始まるときには、〈賭場〉に集まった人間全員が賭金を積んでいるのではと思うほど金が集まり、比例して観客席はこれ以上ないほど騒々しくざわめいていた。恵も結局は裏梅からもらった軍資金を全額胴元に渡すことになった。

〈山間〉のなかにいると忘れそうになるが、この〈賭場〉はれっきとした違法賭博場である。それもあって、これまで山のなかでひっそり開かれてきたのだが、今夜の有様といえば、遠くからでも見えるほど煌々と明かりを焚き、下界にも聞こえるのではというくらいの喧騒で満ち、まるで正気の沙汰ではない。だがこれは、正しくはないが、望ましい有り様なのだ。集まった人々が狂わぬ祭りなど祭りとは呼べない。

 

土俵入りした渾と恵の向かいには、赤茶の毛色をした体の太い犬―――名は律(りつ)―――とその主がいる。わざわざ輸入して得たチベタン・マスティフを仔犬から育て上げたというその犬は、渾と同じくらい大きな体躯を持ち、さらに渾よりずっと若い最盛期の闘犬だった。本来、盛りを過ぎて老いた闘犬には格の低い闘犬をあてがうものだが、渾に限っていえば、老境にあってもその力を侮ることは礼を欠くことだと、犬の持ち主同士で番付を決める際に全員の意見が一致していた。渾は”先祖返り”、最初で最強の山犬の生まれ変わりなのだ。

恵もその采配に異論はない。だが、渾の手綱を握りしめた手を離さなければいけない瞬間を恐れた。取り組みが始まればもう後戻りできない。観衆のなかに、いるはずもない父の姿がないか探したくなった。今このときだけは、あの竹を割って更に微塵切りにするような鋭く遠慮のない言動が懐かしい。何ビビってんだ、渾なら勝つに決まってんだろ。

恵はひそかに宿儺のほうを見やった。土俵の四辺のうち、山頂のお社を背にした一辺の中央に胴元は立ち、勝負の一部始終を見守る。今の宿儺は、そばで横綱戦の賭金をまとめ終えた袴組たちの様子を見ているところだった。目を合わせてしまう前に視線を戻す。後悔はさせない、と自分は言い切ったのだ。〈犬屋〉の誇りをもって両足に力を入れて立つ。

そして、その時が来た。犬たちは睨み合い、前のめりになって闘志を高めていく。それぞれの主はうしろから首輪をつかんでそれを抑え、観衆が固唾を呑んで見守るなか、胴元の開始の合図でそれをすばやく外した。

渾と律は真正面から牙をぶつけ合い、絡み合いながら二本足で立ち上がった。若い犬の噛みつきを、熟練の犬は巧みに避け続ける。その周囲を回り込みながら、恵は闘いを見守る。始まってしまえば不思議と気持ちは落ち着いた。

好機を狙って渾は律の背に覆いかぶさり、その首に牙を立てた。その動きは完璧だったが、チベタン・マスティフの毛皮は毛量が多く、うまく牙が通じていないように見える。その懸念は正しく、律は首を振って相手を振り払い、逆に前肢を狙って噛み付いた。その若犬の片耳に渾は食いついた。互いに食い合って暴れ回り、ようやく離れた頃には、律は耳をちぎられ、渾は前肢を裂かれていた。観衆から悲鳴が上がる。

土俵を血で汚しながら、両者は一旦離れて機を図る。ふたたび組み付いて、のしかかり、噛みつき、負傷してまた離れるを繰り返す。実力が拮抗し、ゆえに決定打が決まらず、傷が増えるだけで闘いは長引いた。そうなると体力が低いほうが不利になる。実際、渾は疲労のためか背が下がり、一回り小さくなってみえた。

闘犬の勝敗は、恐れて鳴き声を上げる、戦意喪失して逃げ出すなどで決まる他に、犬の主がこれ以上は続けられないと判断して負けを認める合図をし、犬を引き離して終わらせるという手もある。だが恵は冷静な心を保ちながら黙って見つめていた。渾は黒白の毛を血まみれにしながらも、恐れてもいないし諦めてもいない。

二匹の犬は睨み合いながら土俵をぐるりと廻る。観客席から両者に檄を飛ばす声はひっきりなしに響いているが、闘いに集中している恵の意識からは除外されていた。物語のなかでは山犬は赤犬に勝つが、現実ではそうと決まっていない。どんな結末になるかは、今ここ、刹那の瞬間に決まる。

そして、その時が来た。

犬たちが動くより先に、鋭い殺気を肌で感じて恵は目を見開いた。先に飛びかかったのは律だった。渾の体を倒してもんどり打たせたのも律であった。誰の目にも律の勝機が見えた。

だが舞い上がった土埃が落ち着いたとき、そこには律の喉にがっぷりと噛み付いて乗り上げている渾がいた。先程の殺気を放ったのはまさしく強かな渾のほうであり、それに当てられ恐怖した未熟な若犬が、不用意に飛びかかって罠にはまったのだ。

仰向けになった律の四肢がもがいた。それが渾の体に当たって、傷口から血が迸った。それでも決してマウントを外さず、牙を食い込ませる。そこからしたたる血潮が徐々に水たまりをつくっていく。長い時間をかけて練られた老獪な殺意は、冷徹で重い。

やがて、若犬が最期の息を吸い、動きをとめた。それを十分に見て取って、渾はゆっくりと牙を外して、ゆらりと立ち上がった。いつもの翁のような眼の渾だった。ふと気が付くと、〈賭場〉は水を打ったように静かになっていた。

 

「勝負あり。」

 

ふいに、宿儺の低い声が厳かな響きをもって静寂を破った。

それを聞き取ったかのように渾は耳を震わせ、宿儺のほうを、いや、そのうしろの山頂を見上げた。その満身創痍の体は、やがて力を失って、音もなく土の上へ崩折れた。

恵はその一部始終を見つめていた。闘いは終わった。渾が勝った。そして同時に、いつも恵のことを遠い過去からまなざすようだったその山犬の眼は、永遠に閉じられ、二度と開くことはないと否応なく理解した。恵もまた、糸が切れたように膝を折って座り込んだ。

視界の端に、土俵へ降り立った黒下駄が見えた。事切れた山犬の亡骸のほうへ近づいていくその男を見上げる。宿儺は沈黙したまま渾を眺め、そして恵のほうを見た。その目からはいつもの嘲笑の色が抜け落ち、ただ真っすぐで、そんな目で見ないでほしいと恵は思った。ただでさえ、埃の入った目が今にも水滴をこぼしそうになっているのだ。

徐々に周囲のざわめきが戻ってきたそのとき、下から上へ突き上げるような、ぬるい春の風が吹き、天幕をふるわせた。その突風に呼応するがごとく、勝負を終えて休んでいたはずの犬たちが幕屋のなかで吠える声を聞いて、恵はどきりとした。何かに呼びかけるように、次々と遠吠えを上げる。虎杖の声が鋭く響いた。

「アレ何だ!」

勝負に呆然としていた〈賭場〉の全員が、不意を突かれて虎杖が指差す方向に目を向けただろう。恵も、宿儺さえもその山頂方向の夜空を見上げた。

春分の霞がかった天空には、たくさんの篝火から舞い上がった煙が滞留していた。その白煙は風によって形を変えていた。それは恵の目には、大きな山犬の姿かたちに見えた。

ふわりとした煙の依代を得た山犬は、風にのって四つ足で駆け、軽快に山頂までたどり着いた。そのままお社へ吸い込まれるように降りていき、やがて、大気のなかへ霧散した。

風が止み、遠吠えも止んだ。そして〈賭場〉には、白昼夢から覚めたような、呆気にとられたような空気が残された。

今目にしたものは、恵の幻覚だろうか。だが、周りの人々が空を指して口々にささやき合っている。だとすれば現実に起きたことか、あるいは集団幻覚をみんなで見ていたかだ。

混乱している恵の視界がにわかにハレーションを起こす。おかしいな、と目をこすると、自分がぼたぼたと涙をこぼしていることに気がついた。自覚した途端、水量が増えて、堰を切ったようにとめどなくあふれる。もう顔を上げられない。

「皆の衆。祭りは終わった。」

ばさり、と袖が翻される音。宿儺の声。涙で前が見えない恵は、耳だけでその宣言を受け取った。

「山犬の魂は母神のもとへ還った。これにて、長きにわたる神との誓いは果たされた。」

かつて〈山間〉の人々に神は言った。〈山間〉を守った山犬の血統を守り継ぐこと、毎年神事を行ってこの縁起を語り継ぐこと。

朗々とした低音が、神通力を持ったように空間の隅々まで通っている。まるで本物の神官のようだ。

 

「―――今夜をもって、〈賭場〉は永久に閉じられる。」

 

ひとつ、柏手を打つ音が、虚空に大きく反響した。

その託宣のような言葉が、ゆっくりと恵のなかに染み込んでいく。

終わったのだ。

〈山間〉の神話が。闘犬賭博が。山犬の血統が。〈犬屋〉の仕事が。恵が半生を賭けて守っていたものが。心の底から愛したものが。思い出が。苦しみが。愉楽が。狂気が。祭りが。呪いが。夢が。幻が。

その全てを洗い流すように、涙は流れ続けた。右から、ハンカチを持った釘崎の手が頬をぬぐう感触がした。左から、袴の裾がかすかに見えて、肩に虎杖の手が乗せられた。恵はただそれらの温もりを享受するしかできなかった。恵の胸を痛めつけてくる哀しみの濁流をやり過ごすことに必死だった。

今夜喪われていったものたちへ、〈山間〉の民たちはみな黙祷を捧げた。

 

春分の祭りは、そうして幕を閉じた。

 

 

めくるめく夢のようだった夜が明けてから、亡くなった犬たちの火葬が執り行われた。〈賭場〉にいた者もいなかった者も、渾を知る者の多くが哀悼の意を示してくれた。午後になると、伏黒家に虎杖と釘崎が来てくれた。昼間から酒とつまみを共にして、色々な話をして笑い合った。昨日の祭りの話、犬たちの話、昔の思い出話。だらだらと飲み続けて、明け方になってから二人は帰っていった。

翌日は、朝から有志が山に集まって〈賭場〉を解体した。祭りでのあの不可思議な出来事のおかげか、〈両面〉の鶴の一声のせいか、〈山間〉の人々は誰もがみな、山犬の神話と闘犬賭博の伝統が終わったことを受け入れ、納得していた。ほとんど寝ないまま恵も解体に加わって、しばし考えたが、土俵を崩して均す際に、渾の遺灰もそこに埋めてもらった。四本柱も倒され、簡素なつくりだった〈賭場〉はあっという間に更地になった。このまま放っておけば、草が生え木が育ち、周囲の山々と見分けがつかなくなるだろう。時を越えて、数多の犬たちの勝利と敗北と血と魂を地中に抱きながら、母なる山はそこにあり続ける。

そして午後になり、夕方になり、恵はずっとソファにもたれてぼんやりしていた。昨日のささやかな宴会から何も食べていないが、冷蔵庫の中身は空で、食べ物を調達しにいく気も起きない。肉体の疲労以上に、気力の欠落が大きかった。何もかもなくなった、という思いだけが恵の頭の中をたゆたっていた。住まう犬を失って空虚になった犬舎と同じく、住まう情念を失った恵の内側もまた、空虚だった。

哀しいという思いはある。けれど、胸を突き刺すようだった哀哭は祭りの夜の涙とともに全て流れ出てしまった。今残っているのは、ぬるい風呂水のような温度の哀惜だけだ。これからどう生きていけばいいのか、という素朴な疑問さえわいてこない。もしこのまま千年の長い眠りにつくことができれば願ったり叶ったりだが、目だけは妙に冴えていた。

掃き出し窓の外の、傾きかけた陽光を意味もなく眺めていた視線を、ふと天井に向けたとき、ある一点に焦点が合わされた。一対の赤みを帯びた瞳。

いつの間に上がりこんだのか、恵のそばには宿儺が立っていて、こちらを見下ろしていた。今日は洋装で、春物のコートを着ている。

「頃合いのようだな。」

言葉の意味も分からないが、なぜ宿儺がここにいるのかも分からなかった。あの夜、渾が恵のもとを永遠に去っていったように、この男もどこかへ去っていったのだと恵は認識していた。夢でも見ているのだろうか。

「一応聞くが、あの夜のアレは、オマエの仕業ではなかろうな。」

思考を一巡させて、あの渾のかたちをした煙のことを言っているのだとわかった。

「……どうやってあんなことやるんだよ。むしろ、オマエの仕掛けじゃないのか。それらしい口上言ってたろ。」

宿儺は軽く肩をすくめた。

「あれはアドリブだ。どのみち、胴元なんぞつとめるのは一回こっきりだと決めていたがな。……やれやれ、まさかこの俺が集団幻覚に中てられる日が来ようとは。」

オマエのせいだぞ、伏黒恵、と宿儺は嘯いた。

「オマエが悪いのだから、俺がオマエの弱っているところにつけ込みに来ても文句はなかろう。」

何やらめちゃくちゃなことを言っている。やはりこれは夢か幻かもしれない。

「迎えに来たのだ。さっさと立て。」

しかし実体をもっているらしい宿儺の腕が、ソファの背もたれに手をついて、ぎしりと音を立てさせた。そうして顔を覗き込まれても、恵は体を動かすことができない。

「なんで。」

「オマエを連れて帰る。そして俺のそばに置く。」

それはあまり答えになっていない。なぜいまだに恵を求めるのか。

「……もう寝物語で語れることなんて、何もないぞ。」

俺はもうからっぽなんだ、と恵はつぶやいた。

「からっぽなのか。なら空いたところを俺で埋めてやる。余すところなく。」

臆面もない台詞を楽しそうに言い放つ。

「何をためらう?俺が好きだと言っていたろう。」

言っただろうか?似たようなことは言ったような。宿儺と過ごしたいくつもの夜が脳裏を駆けていく。そして結論づけた。

「―――そうだな、俺はオマエが好きだと思う。」

我が意を得たとばかりに、宿儺はにっと笑った。

「そうだ、とっくにオマエは俺の一部で、俺はオマエの一部なのだ。」

宿儺の言うことは理性では噛み砕けなかったが、心身では飲み込めた気がする。この男とは、何日も同じ肉を分け合って食してきたのだ。

恵は首を傾けて、男の顔を睨み上げる。

「俺はけっこう厄介だぞ。」

「それはもう知っている。」

そう言って宿儺は自身のこめかみを指した。前に恵がつけた傷は、跡形もなく消えていて、少し悔しかった。次はもっと深く切り裂こう。

拭い去られたはずの情念が、酵母のようにふつふつとわいてくるのを感じた。これからそれを育てて胸中に満たしていくのもいいかもしれない、と思うことができた。

「わかった。オマエと一緒に行く。」

恵はようやく立ち上がろうとした。ひとまず着替えて荷造りをしなくては。だが自力で腰を持ち上げるより先に、宿儺の腕に背と膝裏をすくい取られた。

「は、おい……」

ひょいと恵を横抱きにして、宿儺は居間を出て玄関へ向かった。まさかこのまま家を出る気か。

「ちょっと待て、荷物……」

「身一つあれば十分だ。」

「せめて施錠……!」

恵の訴えを無視して宿儺は足取り軽く戸をくぐった。半開きの引き戸が遠ざかっていくのを恨めしく見つめながら、あとで虎杖に連絡しておこう、と考えたところでスマホも置きっぱなしであることに気付く。深いため息をつき、恵は観念した。

この男のそばにいるということは、きっとこんな調子で振り回されて騒々しい日々になるのだろう。全て失って空になった箱の底に残っていたものは、希望と呼ぶには厄介が過ぎるが、千年の眠りよりもずっと輝かしく恵の未来を照らした。

腹いせに恵は犬のように、宿儺の首筋に噛み付いてやる。宿儺は嬉しげに喉を鳴らして、恵を抱く腕に力をこめた。

「かぶりつくならこっちにしろ。」

足を止めて、顔を近づけてきた。歯がうずくままに、恵は目の前の獣の唇に噛み付いた。

思い返せば、この男との最初の出会いは渾がもたらしたものだった。神の獣は恵のもとを旅立つ前に、人間の獣を恵に遺していった。そう考えるのは、いささか感傷的(センチメンタル)過ぎるだろうか。渾の前でそうだったように、宿儺の前でもまた恵はひとりのちっぽけな人間として、一匹の獣として、気負いなく自由だった。永訣の哀しみは温かい舌で慰撫され、開放の歓びに塗り替えられようとしていた。

天がもたらす春の陽は、二人の獣が〈山間〉を出立するのを静かに見守り、祝福するようだった。