「春の山犬」(2021.05) - 2/5

 

蟄虫啓戸(すごもりのむしとをひらく)

恵の生活サイクルは渾を中心に回っていた。

朝は七時に起床し、犬舎へ行って渾の体調をチェックし、柵で囲んだ広場のなかで一時間ほど運動をさせたのちに給餌をする。それから恵は母屋に戻って軽い朝食を摂る。

その後、バイトのシフトが入っている日は職場にでかけ、たいていは終日働き夜に帰る。シフトのない日は学科の教科書を取り出して自習する。甚爾の出奔の尻拭いと並行して、血反吐を吐きながら受験勉強をして奨学金をもぎ取り現役入学したのだ。復学したとき講義についていけず退学する事態だけは避けたい。それに、ここで学ぶ知識は渾の世話をするうえでも大いに役立つはずだ。修了するころには渾の寿命はきっと尽きているだろうが、恵は深く考えないようにして、目の前の勉学に没頭した。その合間に渾の様子を見に行って、遊んでやったりもする。

夜になればまた運動し、二度目の餌を与え、自分も適当な食事を摂る。バイト先でまかないをもらった日はそれを食べる。そして日付が変わる前に就寝する。だが渾のことを考えながらうつらうつらしている浅い睡眠は丑三つ時に途切れ、また犬舎をのぞきに行く。恵が訪れると必ず渾も起きてしまうから、いらぬ負担をかけてしまうよくない行動だ。なのに毎晩漫然とした不安におそわれて、居ても立っても居られず訪いを繰り返してしまう。

真夜中に犬舎に行く習癖を強い意志で断ち切ってさえいれば、あの夜にあの男―――とらを恵が見つけることもなく、きっと朝になる前に彼はどこかへ去っていっただろう。

そうして恵が自ら招き入れてしまった、ネコ科の大型獣に似ている男は、伏黒家の生活のなかに強引に侵食してきた。

 

とらの日中の行動パターンは不規則である。

ふらりとどこかへ出かけて、見慣れぬ食材と調味料を詰めた新たな段ボール箱を抱えて帰ってくるときもあれば、一日中家にいて寝ていたり肉の下拵えをしたり恵の本を読んでいるときもある。こんなに目立つ男が〈山間〉をうろうろしていたら、虎杖やレストランの常連客がうわさしているのを耳にするはずだが、今のところそんな話は聞かない。物理的に恵を害してくることはなく、自習を邪魔したり家を荒らしたり他人を連れ込んだりという迷惑行為もないが、正体は依然謎に包まれていて不気味である。

そんなとらは夜になると必ず家にいて、食事をつくる。

とらがつくるのはいつも肉料理で、牛豚鶏の他にも恵がよく知らない獣肉が出てきたりする。傍から見ていると、ぶつ切りした肉と野菜を無造作に煮たり焼いたり蒸したりしているようにしか見えないが、食べると予想を超えた美味が味蕾をおそって毎回おどろいてしまうのだ。つくった本人は謙遜のかけらもなく、どうだと言わんばかりに腕組みしているものだから、恵も邪気を抜かれて正直に美味いとほめてしまう。

なぜ毎晩料理をして恵にも分け与えるのか知らないが、それがとらの趣味ないしは習性なのだろうと思うことにする。ここまではまだいい、問題はそのあとだ。

 

恵の寝室はもとは父の甚爾の寝室で、奴が使っていたダブルベッドが広くて寝心地がよいので勝手に使わせてもらっている。が、あろうことか、そこにとらがもぐり込んでくるようになってしまった。

断固拒否する恵を脇に追いやってとらは堂々と寝転がり、他に寝床があるかと開き直った。確かに毎度ソファで寝るのは窮屈だろう。だがそれは恵の個人領域を踏み越えていい言い訳にならない。

とらの図体にこれまで萎縮していた恵も腹に据え兼ねて、叩いたり殴ったり押したり引いたりしてみたが、赤子の腕をひねるようにあしらわれてしまった。いや実際にひねれらて痛い思いもした。

残された道は、恵がベッドを明け渡して居間で寝ることだが、この最期の砦までも譲ってしまえば、庇を貸して母屋を取られるという言葉通りの事態になりかねない。すでにほとんどそうなっているのかもしれないが。なけなしの意地と反抗心で恵はベッドから降りなかったが、とらは全く気にしないようだった。

それどころか、何か寝物語をしろと再び恵にねだってきた。寝床の半分だけでなく、恵の時間と気力まで奪おうとする気なのか。語って聞かせられるような面白い話など知らないと言っても、声が聞きたいだけだから何でもいいと返された。困惑する恵が何か言うのを待っているとらの、闇の中でも貫いてくる視線が痛い。とらは己の欲求に関して一切諦める気も譲歩する気もないことは思い知らされていたので、恵が折れてやるしかなかった。

とはいえ、つくり話をするような才能もない恵は、自分や自分の周辺の物事を話すことしかできない。仕方なしに、ある夜は〈犬屋〉の家業の話、ある夜は〈山間〉の古い家々の話、〈賭場〉でのしきたりの話、父の話、その他とりとめもないことをぽつりぽつりと語った。〈山間〉の者だけがつかう言葉も混ざり、時系列もばらばらな話し方だったが、とらは相槌以外は何の文句もはさまずに、じっと恵を見つめながら聞いていた。

 

とらの回復力はすさまじく、一週間も経たぬうちに新しい肉が盛り上がって傷口をふさいでしまっていた。怪我が完治してからも、とらが恵の家から去ろうとする気配は一向に訪れず、共寝の夜語りも飽きずに続けさせられ、恵の日常はとらに食われ続けた。

それでも、以前よりましなことは二つだけあった。冬の名残が残る寒い夜でも、とらの高い体温で布団がすぐに温まることと、夕食で満腹になったうえに語り疲れて熟睡するおかげで、夜中に目覚めて犬舎に行く癖がなくなったことだ。

 

 

恵が初めて〈賭場〉に足を踏み入れたのは、十五歳を迎えた冬至の夜だった。この歳になると〈山間〉では成人と認められ、闘犬の神事に参加することを許されるしきたりだった。

冬の乾いた大気のなかで篝火が燃えていた。見上げれば、山頂から〈賭場〉を見下ろすお社の輪郭が夜空に浮かび上がっている。これは神に捧げる儀式なのだから、特等席で眺めてもらわねばならないのは道理だろう。

地面を掘り下げてつくった土俵のなかで、闘志をみなぎらせた渾が毛を逆立てている。向かいには、まるで昔話の再現のように赤い毛色の犬が鼻にシワを寄せて唸っている。

闘犬に参戦するのは〈犬屋〉の山犬の子孫たちだけではない。半数以上は賭博に集まった男たちがよそから連れてきた犬たちである。様々な生まれの犬が闘うことで勝負の行方が未知数になり、そこに悲喜交交のドラマが生まれる。

胴元の合図で、二匹の大犬はがっぷり四つに取っ組み合った。お互いの首に噛み付き合い、土の上を転がる。始まったのは今夜の大トリの横綱戦。土俵に覆いかぶさるようにして檄を飛ばす男たちの熱度も最高潮に達する。

平時であれば、彼らはみな和を尊び、勤勉で素朴で気のいい人々だ。それが〈賭場〉では人が変わったように荒々しくなった。しかし恵はそれを怖いとは感じなかった。この〈賭場〉では、それこそがあるべき姿で、神を喜ばせることのできる様態なのだ。

接戦の末、渾が土煙を上げて赤犬の鼻面を引きずり倒し、悲鳴を上げさせた。闘犬においては先に鳴き声を出したほうが負けになる。渾の勝利が決まり、ぐわりと空気を震わせて観戦者たちの歓声が沸いた。恵は体のうちが熱くなり、ぶるりと体が震えてひときわ大きな白い息を吐いた。今から思えば、あれは官能に近い情動だった。人々から祝福を受け、血を流しながらも屹立する渾のうしろに清らかな後光すら見えたのは、きっと目が涙の膜でうっすら滲んでいたからだろう。それでも〈山間〉で闘犬が神事とされる本当の意味を理解できた気がした。

この感動を持て余し、恵はとなりで一緒に初めての闘犬を観戦していた義姉を振り返った。だが、姉の顔に浮かんでいたのは恵と同じ恍惚ではなく、戸惑いだった。恵とは明らかに違う感情によって瞳を滲ませ、「こんなのひどい」とつぶやいた。

恵にとってひとつ年上の姉は、お互いにあまり理想的とは言えない親を持ち、両親に隠れて忸怩たる思いを共有することのできる同志だった。血がつながっていなくても、同じ感性と良心を抱いている似た者同士だと思っていた。

しかし、この冬至の夜に直面させられた、姉との深い断絶は、少なからず恵に衝撃を与えた。そんな恵に甚爾は短く言った。―――あいつは〈山間〉の人間じゃねぇからな。

姉は〈山間〉の外からやってきて甚爾と再婚した女性の子供だった。そのことに関して恵は頓着したことなどなかった。だがそこには大いに意味があったのだ。

十五歳にして、恵は〈山間〉の血という業を思い知らされた。己はは紛うことなく、神話に呪われた人々の末裔なのだ。穢れを清浄とし、残酷を神聖とする者たちの一員なのだ。

それから一年も経たないうちに、〈犬屋〉の家業に馴染むことがないまま母娘は伏黒家から離れ、〈山間〉からも出ていった。姉からは一度だけ季節の便りが届いたが、恵は返事を出せなかった。

 

 

暦が三月に入り、日差しが春めいてきた午後、恵は犬舎へ訪れていた。渾が寝そべりながら、太い骨に夢中でかじりついているのを座って眺めている。昨日とらが持ってきた大きな牛肉の塊に埋まっていたものだ。人工物ではない、まだ血や肉のかけらがついている新鮮な骨の味は、犬の本能を刺激するのだろう。

「このまま死ぬまで飼い殺すのか?」

嘲るような声が聞こえた。ゆっくり振り返ると背後でとらが薄笑いを浮かべながら立っていた。

「……何だと。」

「闘犬の本領は闘うことだろう。それが二度と叶わないというなら、いっそ今すぐ楽にしてやればいい。」

恵が睨み付けても、とらはより一層楽しそうな顔になるだけだ。犬の話で恵を煽れば怒り出すことをわかってやっているのが憎らしい。

今とらが言ったことなど、恵がこれまでに考えていないはずがない。渾の精神が不安定になったのは、〈賭場〉が開かれず、長い間闘えていないからだ。本能を封じ込められ雌伏させられる時間は、長びくほど苦しいに違いない。だが、それだけの理由でひとおもいに安楽死させてやるなど、恵の良心が許さない。生きようとしているのなら、できる限り生かすべきだ。

とらは恵のそばにかがみ込み、誘惑を吹き込むようにささやいてくる。

「過保護な檻のなかで、老いて動けなくなってから朽ち果てるなど、俺がこいつだったら願い下げだな。」

「わかったような口をきくな。」

そうだ、渾が本当に何を望んでいるかは人間には知りようがない。闘って死にたいのか穏やかに生きたいのか。望みがあるだろう、と考えるのも人間の勝手な思い込みかもしれない。

そうして手をこまねいたまま、渾の状態がどうしようもなく悪化していくことをずっと恐れていた。その不安が蓄積して深夜に中途覚醒してしまうような有り様になったのだ。恵もまた苦しかった。そんな恵を、渾は翁のような瞳で見つめるだけだった。

物思いに沈む恵を、とらが無遠慮に指でつつく。

「おい、まだここに用があるのか?そうでないなら案内をしろ。」

「……は、どこに?」

「俺は〈賭場〉が見てみたい。この山のなかにあると言っていたろう。」

恵は顔を上げた。いつかの寝物語で話した覚えがある。

「山頂の社はもう見た。あそこから見下ろすとそれらしき空き地があったが、周辺を探っても道が分からん。」

山といっても、お社の建つ山は小学生が日帰りで往復できるくらいの標高である。この男ならひとまたぎだろう。

「確かに、道を知らないとたどり着きにくいところだな。」

「オマエは知っているだろう。連れて行け。」

いちいち命令口調なのはいけ好かなかったが、恵も久しぶりにあの場所を見に行きたくなった。

 

山の上のお社には二つの扉があり、二つの参道があり、二つの鳥居がある。かつての神官の家の屋号が〈両面〉なのはそこに由来があるのではないかと恵はぼんやり考えながら、とらを先導して裏参道のほうを登っていく。十五分ほど登ったあたりで脇にそれ、獣道のような隘路を目印の樹木を確認しながら進むと、ふいに木々が途切れて草野球ができそうなくらいの広場に出る。

そこは山腹に突き出た台地で、土がむき出しの地面の中央に〈賭場〉はある。土を掘って一段低くした土俵の四隅に白木の柱が立っている。闘犬があるときは柱を支点にして腰の高さに筵を巻き、上には天幕を張る。素朴な舞台装置だが、この形が長い間受け継がれていた。

だが、久々に訪れてみた〈賭場〉の変わり果てた様子に、恵は胸が痛んだ。

均されていた地面には雑草が生い茂り、土俵のなかにはゴミが散乱していた。コンビニの菓子や弁当の容器、空のペットボトルや酒の缶、アダルト漫画の雑誌も積み重なっている。おそらく、不良たちのたまり場になっているのだ。四本の木柱は無事だが、雨除けに使っているのか汚れたブルーシートが引っ掛けられている。

この惨状を見て、とらはふんとひとつ鼻を鳴らした。恵は長い溜息をついた。仮にも神事を行う場所を汚されたという怒りはあるが、仕方がない。人足が絶えれば必然的にこうなるのが世の常だ。一度も様子を見に行こうとしなかった恵にも責任の一端はある。

贖罪としてゴミだけでも片付けようと決意して恵は土俵に降りた。また元通りになってしまうかもしれないが、かといって見て見ぬ振りをして帰ることはできない。

とらはその場から動かずに、なぜか先程登ってきた参道の方角を見つめている。

「オマエたちのしきたりでは、こういうことをする輩はどう罰するのだ?」

「しきたりもなにも、悪質なポイ捨て野郎どもはぶん殴ってやりゃいいだろ。」

苛立ちに任せて適当なことを答えながら、一度家に帰ってゴミ袋を取ってくるべきかと段取りを組んでいると、とらが再び口を開く。

「人が来るぞ。」

「え?」

「十人はいるな。」

恵はあわてて振り返るが、山は静まり返っていて何も聞こえない。しかし、一分もしないうちにがやがやと荒っぽい話し声が聞こえてきた。やがて、ざくざくと草を踏み分け、絵に書いたような不良たちが広場に姿を現した。とらの言った通り、十人くらいの大所帯だった。

ここをたまり場にしていたのはこいつらか、と瞬間的に理解すると同時に、やばい、と冷や汗が浮かんだ。ぶん殴ればいいと先程言ったばかりだが、さすがに多勢に無勢である。逃げ道は彼らの背後。無難にやり過ごして帰るにはどうすれば、と考えているあいだにも不良集団はこちらに歩み寄ってきて、両者の距離は狭まってくる。

ざっと見て彼らの年齢層は三十代くらいから十代後半くらいまでの幅がある。手に手にコンビニ袋を持ち、とらと恵をじろじろと品定めしながら、ひそひそと何か話している。合間に〈犬屋〉という単語が耳に入った。恵の顔を知っている人間がいるということは、〈山間〉の人間が混じっているか、全員がそうなのか。ならば彼らが〈賭場〉の場所を知っていることにも納得がいく。

などと考えているうちに、集団のリーダーらしき先頭の男が、とらの正面に立った。

「どけよ。」

横柄な態度で男は言い放つ。恵の位置からはとらの横顔が見えた。その顔がにやりと口角を上げ、恵は嫌な予感がした。

「これは確認だが、ここにゴミを捨てていったのはお前らか?」

とらが指し示すと、集団から嘲笑の声が上がった。

「だったら何だよ。」

「よし。」

とらの右手がゆるりと上がり、腰溜めの位置に握られた、と認めた次の瞬間には、リーダーの男が汚い声を上げて体をくの字に曲げていた。みぞおちに打撃が入ったのだ、と恵が気づいたのは一瞬後だった。速すぎて見えなかった。膝から崩れ落ちる途中の男をとらは雑な手つきで土俵のほうへ突き飛ばした。まだ土俵のなかにいた恵はあわてて飛び出す。

恵が振り返ったときには、すでに三人ほど追加で土俵に投げ込まれていた。だが四人目はとらの一撃で倒れなかった。集団のなかで一番大柄な男で、恐怖で硬直していた残りの不良たちが、そんな彼の背を見て安堵の顔つきになる。攻撃を放った直後のとらの胴体に、男はタックルの姿勢で掴みかかった。胴を捕られたとらはしかし、男の勢いを逃がすように体をひねり、舞のような軽さで一回転すると男を宙に放り投げていた。飛んだ男の肉体は、油断していた残党たちを巻き込んで、痛そうな音を立てて地面に落下した。これで、不良集団のなかで立っている者は一人もいなくなった。

最初の打撃から一分、いや三十秒も経っていないだろう。その鮮やかといっていい手腕に、恵はいっそ感動すら覚えた。

集団のほぼ全員が気絶していたが、大柄な男の下敷きになっていたのをかろうじて抜け出せた者が二人いた。しかし、すかさずとらがニコニコしながら彼らを蹴り上げる。

「ゴミはちゃんと持ち帰らないとな。俺たちの手をわずらわせるなよ。」

自分たちがこれからすべきことを把握した男たちが、土俵に向かってよろよろと立ち上がろうとしたのを、またとらが蹴り倒した。

「誰が立っていいと言った。這ったままやれ。」

とらの顔は笑っているが、地獄のように低く響く声だった。もはや泣きべそをかきながら、男たちは四つん這いでゴミをかき集め始めた。

とらがくるりと恵のほうを振り返る。その表情からは先程までの嗜虐性が消えていて、いたずらを成功させた子供のような、得意げな色があった。

「どうだ?」

どうだと言われても。見た目の通りオマエは人をいたぶるのが好きな人種か、とか何もそこまでしなくても、とか色々な思いがよぎったが、恵の口は勝手に、

「よくやった。」

と言っていた。その得意そうな顔が、いつも夕食をふるまうときの顔に似ていたから、つい恵もいつものようにほめてしまった。

そんな恵をとらは数瞬見つめていたが、恵の正面に歩み寄って、軽くかがみ込んできた。

「ちゃんとほめろ。」

とらが要求することを察知して、恵は急に気恥ずかしくなった。いつの間にか空は日が落ちかけていて、恵の目の高さまで降りてきたとらの髪のりんかくが金色に光る。仕方なく、という体裁を取りながら、恵はとらの頭を片手でぽんぽんとなでた。その鋭い光をたたえた双眸が猫のように細められて、もっとやれ、というように手のひらに頭を押し付けられた。

今日この〈賭場〉で起きた勝負事を、山頂に坐(ましま)すはずの神は見届けたのであろうか。もしもとっくにいなくなっているのならば、今この闘いの勝利者を称えることができるのは、恵ひとりしかいないのだ。そう考えると、不意に切ない思いがした。

ならば、と恵は両手を掲げてとらの髪のなかに指を差し入れた。そのままとらの頭を恵の肩口に引き寄せて、耳元にささやく。

「オマエは、強い。」

恵なりの言祝ぎを授ける。闘犬で勝利した犬たちにいつもやっていた祝福の動作だ。そのときの犬たちはみな血と土埃の臭いがしたが、今そばにある毛並みからは、いつも布団のなかでかぐとらの匂いがした。

しばしの間を置いて、とらがするりと恵から体を離した。再び恵を見下ろすようになったその顔は、眉間にしわを寄せている。

「オマエというやつは……」

恵が乱したそのうえから更にがしがしと髪を掻き乱し、大仰にため息をつかれた。気に入らなかっただろうか。ほめろと言うからほめてやったのに、やはり厄介な奴だ。

 

哀れな男たちの手でゴミが全て片付けられたのを見届けて、恵ととらは帰途についた。せっかく訪れた〈賭場〉での出来事が不愉快だったのか、一刻も早く帰りたいとばかりに、とらは下りの参道をずんずん大股で降りていった。そのあいだ恵はずっと手をつながれ引っ張られていたせいで、歩きにくいし息が上がってしまった。麓に着いてやっと振り払えたが、しばらく手のひらが熱いままだった。

その後、〈賭場〉の現状を恵が〈山間〉の老人たちに報告したおかげか、とらが据えた特級のお灸のせいか、〈賭場〉が再び荒らされる気配はなくなった。

 

 

そうこうしているあいだにも太陽と月は登って沈み、春分は間近に迫っていた。その日が近いことを悟っているのか、渾は徐々に落ち着きが無くなっていった。恵に対してすら頭をすりつける回数が減り、夜半になると遠吠えをする声が母屋にも聞こえた。

そんな声が聞こえていたせいか、今夜の寝物語は、渾の兄弟の話になった。渾には及ばずともみな逞しく、強い闘犬で、甚爾がつけた高い値段にもかかわらず引く手数多となり、〈山間〉のあちこちの博徒たちに引き取られていった。だが今となっては、みな怪我の後遺症や寿命でこの世を去っている。

温い布団の中で、恵の話を聞いていたとらはつぶやいた。

「よそに売らずに食い合わせれば、もっと強くなっただろうに。」

その言葉の意味が分からなくて、恵は眉をひそめてとらを見た。

「囲いに閉じ込めて、餌をやらずに放置すれば、飢えた犬たちはお互いに殺し合う。最後に生き残った一匹が最も強い犬だ。」

「……どうして、そんな発想になるんだ。」

そんな闘犬の育て方は聞いたことがない。というよりそれは、何かの本で読んだことがある、呪いの作り方ではなかったろうか。いずれにせよ、尋常ではない。

「どうして、か。聞きたいか?」

とらが恵の顔をのぞきこんでくる。わけが分からぬままに恵はうなづく。

途端、熱い温度を胴体に感じた。とらの強い腕が恵の腰に回って、体がくっつくほどに抱き寄せたのだ。恵はびくりと肩を震わせ、とっさに腰から腕をはがそうしたが、固くて重くて容易にはいかない。

「俺も昔話をしてやろう。」

見上げると、息がかかるような近さで、からみつくような視線と、歪んた笑みを浮かべたとらの顔があった。捕獲された、と本能的な恐怖で背筋が震え、手にうまく力が入らない。まるで舌なめずりをするように唇を湿らせてから、とらは話し出す。

「昔あるところに、欲張りで血を好む男がいた。その性根を活かしてあっという間に財を築き、己の王国をつくり上げた。男はやがて年老いたが、その王国を百年でも千年でも強靭なままに維持する方法を考え、そのための遺言を遺した。」

とらの体温が高いせいで、触れ合ったところ全部が熱い。とらは恵の声が良いと前に言っていたが、今まさに恐ろしげな話を語り出したとらの暗く低い声は、恵の耳朶に甘い痺れをもたらし、全身を金縛りにさせるほどの威力があった。

「無節操に拡げ続けた血縁のなかから、巨万の富を相続する候補者を選び出し、王国に呼び寄せた。遺言状には、財産を継承できるのは彼らのなかの誰かひとりだけだと書いていた。候補者はみな、老人の冷たい血を受け継いだ者たちばかりだった。だから話し合いや和解という方法を選ばない。権利を放棄して逃げ出そうとする者にかける温情すら持っていない。だから、老人が遺言にこめた意図を正しく理解して、最後の一人になるまで殺し合った。」

とらが語る話のなかで、どこまでが比喩でどこまでが比喩でないのか判別がつかなかった。徐々に爛々とし始めるとらの両眼から視線をそらすことができない。

「生き残ったのは最も年若い男だったが、王国の家臣たちはみな服従した。強い王国には強い王が要る。老人の遺志は達せられたが、ただひとつ目論見違いであったろうことは、新しい王は王国を愛さなかったことだ。その男は単なる生存本能のまま、殺される前に殺しただけで、玉座には大して興味がなかった。だから今度は王国を壊してみようと、財を浪費したり、領地を切り売りしてみたりしたが、膨大すぎてキリがなく、そのうち飽きてしまった。多くの生贄を血祭りにあげてまで得たものが、これだ。つまらん。強すぎるのも考えものだな。」

とらは短く乾いた笑い声をあげた。それは自嘲の笑いだった。

「だから放り捨ててきた。今の俺はただの”とら”だ。」

その裏側にどんな心理が隠れているのか、恵には知りようがない。渾の真意を理解することが不可能なのと同じように。だから恵は自分が正直に感じたことを言うだけだ。

「俺は、強い獣が好きだ。」

とらは恵を見つめたまま目を細める。

「それがろくでなしでもか?」

「俺もろくでなしだ、犬たちを闘わせて喜ぶ男たちの末裔だからな。」

あの日、姉が示した拒絶が間違っていたとは思わない。だからといって、あの時自分が感じた高揚を否定しようとは思えない。血を拒み、血を求める。相反している。

「俺は、渾がまた闘う姿を見たい。だけどそれと同じくらい、渾が苦しむ姿を見たくない。どちらも捨てられないくせに、折り合いをつけられていないから、しんどい思いをする。自業自得だ。―――だから、自分の欲望に屈託のないアンタが羨ましいよ。」

欲しいものは欲しいと言って実行する、飽きればつまらんと言って切り捨てる。そうして身一つで立っていられる。それができるのは強者だからだ。

「俺もそんな強さがほしい。」

恵はどちらかと言えば自分の胸中を吐露することが苦手なほうだった。だが夜毎にとらへ語りかけ続けたせいで、すっかり舌が滑らかになってしまっている。とらの腕のなかに捕らえられて緊張していた体は、すでに楽になっていた。これもまた、ずっと前からとらの体温に馴らされてしまっていたせいだ。

そんな恵の言葉を聞いて、とらはなぜか口を曲げた。

「今更何を言っている。この俺を手のひらで転がすマネをしておいて。」

何のことだか分からない。疑問符を飛ばした恵の顔にとらの顔が更に一層近づいて、恵の耳に唇をつけた。

「今度は俺が転がしてやる。」

体内に直接注ぎ込まれたささやきが恵の骨髄に甘く響き渡る。より強く腰を抱かれ、足を絡められ、逃げる隙を与えてくれない。

いや、この男から逃げ出す機会は今までにいくらでもあったのだ。寝床にもぐりこまれたときだって、家に侵入されたときだって、本当に嫌悪していたなら、なりふり構わず逃げればよかった。

それでもここに留まったのは、恵に流れる〈山間〉の血という悪徳の呼び声があったからだ、とたった今自覚する。あの冬至の夜、渾の獣の性をむき出しにした闘いを目撃して、恵は疼くような悦楽を得た。そして今、まるで獣の狩りのように恵に迫ってくるこの男なら、もう一度あのめくるめく絶景をみせてくれるのではないか。たとえそのあと、火の上で転がされて食べられてしまうとしても。

突然首筋に噛みつかれ、その快感に鳥肌を立てる。そこから肌をなぞるように登ってきた獣の牙は恵の唇へたどり着いた。その熱い息にうながされるまま、恵は柔くなった舌を差し出した。

 

そうして恵は、ひと晩かけてとらに食い荒らされた。だがそれは反対に、恵が罠にかけてとらを貪り食ったといえるのかもしれない。認識が両端を行き来しても、混乱はなかった。おそい来る性感の波を恐れながら待ち望んでいる。濡れながら渇いている。苦しみながら悦んでいる。抵抗しながら恭順している。殺されながら生かされている。

交合とは、相反するものを重ね合わせ、溶け合わせる力を持つのだ。

理性ではなく心身で会得したその真理をしっかりと記憶したいのに、身体はいうことを聞かなかった。なぜかといえば、下は絶え間なく突き上げられて快楽を全身に循環させ、上は息と熱を吐き出したいのにしょっちゅう口を塞がれて、それどころではない騒ぎだからだ。それでも何とか呼吸をすれば、とらの声と手が恵をほめて、もっと頑張れ、と翻弄した。

否応なく極められていく昂りを終わらせるために、あるいは永遠に続けるために、恵は紋様が刻まれた男の肉体を力の限りに抱き込んだ。