「存在しない記憶:憤怒編」(2021.04)

渋谷での魔虚羅ちゃん召喚に宿儺様が間に合わなかった世界線の話です。
間に合わなかったので死ネタ注意です。

 

千年の眠りのあいだ―――否、それよりももっと以前から―――両面宿儺は怒りというものを忘れていた。

この世の事物は一切合切虚しく、ぎこちなく、頼りなく、うろうろと黄昏をさまようあいだに塵となる。無為無常なものたちに、この呪いの王の心を傾けるだけの価値があろうか。快・不快という最低限の情緒を除いて、感情を動かす気はとうに失せていた。おそらくはあの天竺の坊主も、そのような心持ちで悟りに至ったのだろう。

今、両面宿儺は呪いの気配に満ち満ちた真夜中の渋谷の一隅にひとり立っている。先刻まで強烈な気配を放っていたはずの式神は、宿儺と相対する前に影の中へ姿を消していた。目の前では、破壊痕が生々しいコンクリート壁の元に伏黒恵が四肢を投げ出して事切れている。その体たらくを視界に入れた次の瞬間には宿儺が手ずから反転術式を施したがむなしく、すでに魂魄こんぱくは肉体を離れ、復活することはなかった。

強大な式神の呪力を察知して、最短最速で駆けつけた宿儺に落ち度は無い。この伏黒恵もそこに転がっている何者かの肉塊も、召喚した式神を調伏するだけの能力がなかった、あるいは式神の殺意に一切抵抗する気がなかったかだ。こみ上げる不快感に眼球の裏が熱くなる。

自らを灯明とし、他のものをより処とせず。天竺で悟りを開いた彼かの僧は、弟子にそう説いて入滅した。

己で定めた法をのみ信じ、命を燃やしてひとり立つ小さな灯明を、あの日両面宿儺は伏黒恵のなかに見出した。その灯明の光は宿儺に快さをもたらした。伏黒恵とその影法師の術式は、器の肉体に封じられてままならぬ宿儺に未来への展望を影絵のように映し出し、両面宿儺のためだけの極楽浄土への道を闇のなかに示していた。

他者に、未来に期待をして胸を高鳴らせるなど、千年前とて滅多に無かったことだった。しかし、その灯明は炎を途絶えさせ、彼の式神たちに導かれ根の国へ旅立った。苛立ちが募って噛み締めた歯がぎりりと鳴る。

魂の抜けた身体からはまだ鮮やかな血の匂いがした。特に理由はなかったが、宿儺は少年の顔をほとんど覆うほど流れていた血糊を手のひらでぬぐった。隠されていた表情があらわになる。伏黒恵はうっすらと微笑んでいた。目を伏せ、口角をわずかに上げたその顔のかたちは、宿儺が千年前に幾度となく破壊した仏像塑像たちの顔に瓜二つであった。

そう認識した瞬間、くすぶっていた不快感と苛立ちが腹の底で着火した。その火は術式を介して宿儺の手から放たれ、あっという間に伏黒恵の微笑のみならず全身を舐め尽くした。かつての仏像たちと同じようにいとも容易く燃え上がる。

ほとんど反射的にそれをやってしまってから、嗚呼と宿儺は嘆息した。肉の一欠片か髪の一房くらいは遺してもよかった。だが少年の死骸は高温の炎で焼却されて舎利のひと粒すら残らずに、燃えかすの煤が宙に散り去った。

馬鹿のように地団駄を踏みたくなる衝動を抑えるために、煤の行方を追って頭上の空を振り仰いだ。美しく輝く星辰が宿儺にささやく。執着は苦しみである。欲望は哀しみである。涅槃の境地からの声がささやく。それみたことか。その懊悩は自業自得によるものだ。一切は虚無であると心得よ。

腹の底の怒りの炎がついに喉を焼き、宿儺は獣のように低く唸り声を上げた。

あの呪われた橋の下での一夜を想起する。伏黒恵はあの場所で力を、可能性を、未来を欲望し、そしてそれを獲得した。呪力で構築した領域のなかで、仮初の王となった。その若き命が全能感に打ち震えるような歓喜を、宿儺は我がことのように感じ取った。あれはとりすました諦念の微笑ではない、生命の根源から湧き出るような呵々大笑を伏黒恵はしたのだ。

呪術とは、起源を遡れば復讐の力といえる。己を嘲笑あざわらう者に、蹂躙する者に、恨みの心でもって報復する手段である。

一切が無常のこの此岸において、親を知らぬ犬の子のような目をしたひとりの少年が、世界に復讐する力をその痩せた体にみなぎらせる筈であった。類まれなるその術式を完成させ、有象無象の呪術師を率いる王となり、宿儺の目と心を悦ばせ、欠落を取り戻す未来がある筈であった。

だが、如何なる縁起と因果がこの無常を、伏黒恵の死を導いたのか。この虚無もまた宿命であるというのか。

肺腑から絞り出された嘆息は、有り余る怒りに熱く、震えていた。

宿儺は伏黒恵の死の跡地に背を向け歩き出す。手のひらに残っていた彼奴の赤い赤い血を、己の顔一面にべたりと塗りつける。紅い虹彩をもつ二対の眼と相まって、すさまじき鬼神の相貌と化しているだろう。赤は怒りと命の色である。

今や怒りの炎は全身の細胞を燃やしている。千年ぶりの憤怒は宿儺の魂を十二分に励起させた。宿儺は憤怒すると同時に愉悦していた―――正しくは、怒いかることに悦びを感じていた。

かの天竺の僧が三毒の一つに数えた瞋しん―――怒りはもとより理で制御できぬ、阿頼耶アラヤ識の底から発せられる情動であり、その狂乱に身を任せることで生物は軛から開放される。かつての伏黒恵のように、開放され全能を得た生命は愉楽に満ち満ちる。

今の宿儺は呪物であるが、その原理は同じく適用する。怒りの感情を放出することは両面宿儺という実存を証明し開放する。その憤怒が熱ければ熱いほど、その核心にある伏黒恵の存在が暗黒星の如く闇くらい光を放つ。これが天に対する両面宿儺の愉しい復讐である。

一夜にして呪われた街のなかで、人間の気配が多く集まる場所にまずは足を向ける。道すがら、手慰みに術式で道路や建物を切断し破壊して回る。夜半であるにも関わらず昼間のように煌々と光を放つ街灯や看板ををまとめて粉砕してやると、闇の領分がそのぶん広がって気分が高揚する。このまま闇を拡張しながら生きとし生けるものを全て殺していく。ついでに呪霊も消し飛ばしていく。一歩一歩確実に、そして豪快に鏖殺していく。

呪力が続く限り世界の果てまで闇を従え行進し続ける。宿儺の情動の燃えるような発熱に器の肉体が耐えきれず、爆発四散したとて一向に構わない。

伏黒恵という灯明が滅したこの世界が次の夜明けを迎えることを、天が赦そうとも俺は赦さぬ。此岸に存在する一切のものよ、闇に落ちろ。