先程皆が集結していた地点から北へしばらく行った空き地に、宿儺たちが乗ってきたランドクルーザーが停めてあった。車内では現在裏梅が宿儺の腕の応急処置をしている。少し離れた木陰では、恵と甚爾が神妙な顔で話をしていた。傑は裏梅の報告書でしか知らないが、先の春に〈山間〉で起きた出来事、彼らの家業が潰えたことの仔細を説明しているのだろう。背後の草むらが動く気配がして振り返ると、悟がこちらへ歩いてくるところだった。護衛役らしい女性たちも一緒だ。
「言いたいことは色々あるけどさぁー、とりあえず一個だけいい?」
傑の隣に並び立った悟がカフェオレのペットボトルを弄びながら言う。
「僕のやり方がよくないとか言っといて、あっちのやり方のほうが万倍野蛮じゃね?」
「ちょっと驚いたたけど……戦争は回避できたでしょ」
「なーんか毒気抜かれちゃったよ。ていうかアイツら僕のこと忘れてないよね?」
傑は隣の悟の横顔を眺める。あの頃と少しも変わっていない。傑はこの十年散々苦労してきたというのに、憎たらしいものだ。
悟に何故彼のもとを去ったのかと問い質されて、傑は答えることができなかった。怒らせてしまっただろうが、その理由を言ってしまえば、これまでの努力が無駄になってしまう。悟のもとで愉快なことだけ考えて暮らす選択肢もあっただろうが、それは自分が悟の従者として使われることと同義だった。少なくとも周囲の者たちにはそのように扱われていることに、ある日気がついてしまった。学生時代までの二人は確かに対等な関係だったが、大人になることで変容してしまった。悟自身の視点では、ずっと傑と対等に接しているつもりでいただろう。だが客観的にみれば、地位も能力も影響力も、圧倒的に悟のほうが優れていた。だがしかし傑の望みは、悟と対等で居続けることなのだ。それをはっきり認識したから去った。自分は変わらなければいけない。いずれは悟に助力を求められるような、あるいは好敵手として認められるような確固とした力を持たなければならない。強者の恩寵のなかで友人の役を与えられるより、自立した他者として対峙されるほうを望んだ。例え、そのために親友でいられなくなったとしても。
幸いにも、宿儺をとりまく権力闘争のなかで傑はうまく立ち回っていいポジションを獲得することができた。完全に対等とまでは言えないが、こうして堂々と顔を上げて応酬できるくらいには自信を持てている。
不意に、悟が手の中のペットボトルを傑に投げてよこした。受け止めた傑のほうを見ずに悟は言葉を続ける。
「まー収穫はなくもないか。宿儺の陣営の中枢にパイプがあると、万が一また何か揉めたときに便利になるよねぇ」
「……それは私にスパイになれということかな?」
「やだなーそんな物騒なことなんて、ちびっとも考えてないもんね!」
傑はペットボトルの側面に何か書かれているのに気づいた。電話番号のようだ。
「友達なんだからさ、番号交換するくらい当たり前っしょ」
耳に入った悟の言葉を、受け止めるまでに数瞬かかった。悟は気にせず朝の空を眺めている。不覚にも胸がつまって声が出ない。きっと、これまでの自分の行動は彼を少なからず傷つけただろう。それでもまだ、友なのだと言ってくれた。それだけで、すべてが報われたような心地になった。努めて声の震えを抑えながら傑は応えた。
「……近いうちに連絡するよ」
「そ、よろしく」
そうしているうちに、車両から治療を終えた宿儺が降りてきた。父親との話が一段落したのか、それに気づいた恵が宿儺に歩み寄る。甚爾は木にもたれたまま何か考えているようだった。宿儺の正面に立った恵は言う。
「なぁ、アイツの借金、アンタがどうにかしてやれねぇか」
「なんだ、結局は親孝行をしたくなったか」
恵は気まずそうに頭を掻く仕草をする。
「そんなんじゃねぇけど、まさかあそこまで落ちぶれてるとは思ってなかったんだよ。何だよポチって……」
「自業自得というものだろう。気安く尻拭いしてやるのはかえってためにならんぞ」
恵がじとりと宿儺を見上げる。
「……なんだよ渋りやがって。腐るほど金持ってんのがアンタの数少ない長所じゃねぇか」
そう言い放つ恵を、興味深そうに宿儺は見下ろす。
「数少ない……という言い方は逆に言うと、最低でも複数はあるということだな。金の他には何がある?」
そう問われた恵は、難問を考えるような顔をして宿儺を天辺からつま先まで眺め、やがて答える。
「――身体?」
気の抜けるような身も蓋もない返答にも関わらず、宿儺に嬉しげに破顔する。
「そうかそうか、なら存分にくれてやろう」
そう鷹揚に言って恵をその広い胸に抱き込んだ。すっぽりと包み込まれた恵は深いため息をつく。
「……知らねぇ処で好き放題やりやがって」
「オマエのためだぞ」
「俺のせいにすんじゃねぇ。刑務所入れられても面会になんか行ってやらねぇぞ」
「案ずるな、管轄の公僕どもには鼻薬を利かせてある」
「は……そうかよ……」
呆れ声を出しながら、恵は大男の背中をすらりとした手で撫でていた。
「ちょーっと、債権者の僕を差し置いて勝手な話しないでくれる? ていうか隙あらばいちゃついてんな!」
宿儺が首だけで悟に振り向く。
「命拾いしたことも分からん阿呆か。さっさと去ね」
「あれくらいでムキになっちゃって、ダッサー」
宿儺の腕の中から恵が抜け出して、その胸板を軽く叩いた。
「おい、ちゃんとケジメつけとけよ」
しぶしぶ向き直った宿儺が口を開くより先に、悟が宣言する。
「後始末はこっちでやるよ。その代わりうちのポチを返してもらうから」
「狐を狩ったのはオマエたちだということにするのだな」
「そうしたほうがこっちの仕事で有益になりそうだからね。別に構わないでしょ」
「承知した。恵の用事が済めばあとはどうとでも」
水を向けられた恵は頷いた。
「……ああ、話すべきことは話した」
渦中の人物のひとりである甚爾は、いつの間にか音もなく恵のそばまで来ていた。
「恵。決めたわ、実家は手放す」
言われた恵は父親のほうを向く。
「そうか。位牌は?」
「俺はいらねぇ。置いてったもんは全部好きにしろ。そこのヤツに任せればいいようにしてくれんだろ」
宿儺は応えるようににやりと笑った。
「自分でやらねぇのかよ」
「んなめんどくせぇことできるかよ。もう帰らねぇつもりだしな」
「相変わらず無責任だな」
悪びれない父親に恵は毒づいた。
「無責任ついでに親子の縁も切っとくか。〈犬屋〉の家業が終わったんなら、伏黒家も解散しなけりゃな」
そう言った甚爾の顔は晴れ晴れとした様子だった。恵は無表情で甚爾を見返す。
「自分の食い扶持は自分で捕まえられるようになったみたいだしよ。オマエ、〈山間〉にいた頃より毛艶がいいじゃねぇか」
恵の後ろでは宿儺がドヤ顔で胸を張っている。
「俺を心配してやるヒマができたのは結構なことだがな、こちとら有難迷惑ってもんだ」
「別に心配なんかしてねぇけど……」
恵は目を伏せてつぶやく。
「食い足りてねぇのはアンタのほうだったろ、ずっと……」
そんな恵に甚爾は不敵に笑った。
「俺はな、そうでいたほうがむしろ調子がいいんだ」
それを聞いて恵は大きなため息をつく。
「アンタがどっかで野垂れ死んだときに、喪主をやらされるのは御免だからな」
「だろ。じゃ、これからは他人ってことで」
「分かった。じゃあな」
家族の離別を告げるには至極そっけない対話だった。甚爾が悟のもとへと歩き出す。
「……渾の遺灰は〈賭場〉の跡地に埋めたから、一回くらいは会いに行けよ」
「気が向いたらな」
甚爾は振り向かずにそう言い捨てた。迎えた悟が仕切り直すように手を叩く。
「さ、パーティはおしまい! アンタたちはさっさと帰った帰った! ポチはちゃーんと片付け手伝うこと!」
******
恵たちの乗った車は既に去り、がらんとした空き地を甚爾は何とはなしに眺めていた。初夏の温い風が虚空を通り過ぎていく。一抹の喪失感はあるが、これでよかったのだと満足できている。
「今生の別れって感じ?」
五条がからかうように言う。
「でもさ、さっきスマホ預かったときこっそり連絡先抜いておいたんだよね~。いつでもイタ電できるよ! アンタの息子はアンタほど頑丈じゃなさそうだけど、結構イカれてるみたいだし気に入っちゃったなぁ」
「おい丸く収まったとこじゃねぇかよ、余計なことすんな」
「早く仕事終わらせて寝たいんだけど」
真希と真依が口を揃えて五条に文句を言う。
「あ、その前に君たちに言っておきたいことがあるんだった。特に甚爾!」
五条は仁王立ちして人差し指を立てる。
「薄々思ってたんだけど、君たちって、僕のこと顔が良いだけで情緒がないサイコパスかサイボーグだと思ってるよね!?」
「よく分かってるじゃないの」
あくびをしながら真依が応える。
「分かってないのは君たちのほうだって! 僕だってねぇ、へらへらしてるばっかりじゃないんだよ。ずーんと落ちたりぺっこり凹んだりすることもあるの!」
真希と真依が顔を見合わせた。不可解そうな表情だ。
「――それにね、君たちがいなくなったり、傷ついたり死んだりしたら悲しいなって思ったりもするわけ」
不意に、五条の声に厳かな色が灯る。
「だからさ、この世はすごく残酷だけど、皆でできるだけ長く生きて、一緒に面白いことして楽しもうよ。だって全ての生物は歓びを求めるようにできてるんだからさ」
その五条の言葉に呼応するように、頭上の梢で鳥の声がひとつ響いた。
「それが僕の唯一つの望み。そういうわけだから、今度脱走したら僕は全力で駄々をこねるからね、甚爾くん! 以上、朝の訓示おわり!」
言うだけ言って五条はくるりと身を翻し、拠点へ向かって獣道をすいすいとかき分けていく。
「駄々はいつだってこねてるじゃないの……」
「でも、珍しくまともなこと言ってて面白かったな」
真依と真希もそのあとに続く。
「まぁ、これ以上面倒くさいのは御免だから、またどっかにいったりしないでよね」
歩きながら真依は甚爾に向かってそう言った。
「そうだな。私も手応えのある稽古相手がいなくなるのは困る」
真希もそう言って甚爾に笑いかけた。
甚爾は、彼らに何と答えたらいいのか分からないまま黙っている。五条のもとに居るのは、自分を使い潰してもらうためだった。だがどうやら、彼はその反対のことをしたいらしい。ずんずん遠ざかっているその背中に続くべきか、甚爾は一瞬だけ考えた。どうせ、人生はいつか終わるのだ。無造作に使われようが大事に使われようが、すべてはいずれ塵に還る。ならば、それまでの暇つぶしに、彼らとの遊びを楽しんでも悪くはないのかもしれない。アイツはどう思うだろうか。恵を心配する必要はなくなったからもう夢に現れないかもしれないが、もしまた来てくれたなら謝ろう。いつかはそっちへ行くつもりだが、少しだけ待たせしまうと。渾がそばに侍っているのなら、寂しい思いはしていないだろうが。
五条が踏み分けていく獣道に、甚爾もまた足を踏み入れた。夏が始まって、旺盛に緑を茂らせる植物の濃い匂いを吸い込み、その活気ごと取り込んでいく。同じく人生の夏を迎えている若者たちに追随する力を得るために。
******
裏梅は主たちを乗せた車を国道ではなく、ひっそりとした脇道へと走らせた。宿儺がこの地で一泊休むことを所望したからだ。当然それを想定済みであった裏梅は、近場にある隠れ宿のひとつを押さえていた。死んだように静かな場所がよかろうと考え、時代に忘れ去られたような古い造りの、一組の客を迎え入れるだけのこじんまりした宿に宿儺と恵を案内する。夏油は警護の任を解いて帰らせ、女中は部屋と風呂の支度だけさせて下がらせたので、ここにいるのは裏梅を含めて三人だけである。客室は座卓があるきりの質素な居間と、襖で仕切られた隣の寝間。その二間には縁側がついて、竹垣に囲まれた坪庭を眺めることができる。その庭は人の目に媚びるような華美な花や意匠など一切なく、野放図に茂った山帽子が生えているだけの野趣溢れるものだった。しなだれる枝葉によって陽の光は遮られ、部屋は薄暗く、涼しい。それらを一通り眺めて、宿儺は満足したように頷いた。
「食事の支度を致します。昼餉の頃合いになるかと思われますが……」
「それで構わん」
裏梅は茶を淹れ、宿儺はそれを飲んで一服していたが、恵はずっと縁側に座り込んでいた。庭を眺めているわけでもなく、膝に顔を埋めている。そうして動かない恵のそばに、宿儺はあぐらをかいて座った。
「父親との縁など、あってないようなものだったろう。もとの棲家とて、オマエもずっと帰っていなかったではないか」
恵がゆらりと顔を上げる。
「――それはオマエが言っていいことじゃない」
振り向いて宿儺を睨めつけるその目は昏く燃えていた。
「俺は、犬たちも、家すらも失った。それがどういうことか、オマエに分かってたまるか」
引き攣れた声で恨み言を続ける。
「オマエのせいだ。オマエが全部壊した。あの日、オマエが〈山間〉に、俺の前に現れなければ……」
そして痛みに堪えるように唇を噛んだ。その切実な糾弾を丸ごと受け止めるように、宿儺は両手を広げる。
「家が無いのがつらいというなら、この俺との縁を棲家としろ。これはそう簡単に失うことはないぞ」
は、と恵は笑いとも嘆息ともつかない息を吐いた。
「……腐れ縁じゃねぇか」
ケヒ、と宿儺が嗤った。
「そう呼ぶには熟成が足りんな。仕込みたいものがまだまだたくさんある」
「オマエは俺をどうしたいんだよ……」
「吟味しているところだ。ありのままを差し出してみろ。どんなものでも美味く拵えてやろう」
濡れた瞳で宿儺を見上げ、恵は諦めたように肩の力を抜いた。
「……オマエなんか嫌いだ」
宿儺の懐ににじり寄り、その胸に体重を預ける。
「ほう、それから?」
抱きすくめる宿儺の腕のなかで、恵は決然と顔を振り仰いだ。
「めちゃくちゃにしてほしい」
あえぐように発されたその懇願に是と言う代わりに、宿儺はその唇に食らいつくように口づけた。その猪首を恵は荒々しく掻き抱く。先程から気配を殺していた裏梅は、そのまま音を立てずに退室する。
恵に歓びを与えるのは宿儺の役目。そしてその宿儺の歓びのひと時を守るのは裏梅の役目だ。明日の朝まで、二人をこの世の懊悩から遠ざけておくために、すべての小事を一人で賄うことは裏梅にとって望むところだ。彼らに最も尽くせる従者は己以外にいないのだから。この宿の敷地内に、盛りを迎え始めた桔梗が咲いていたことをふと思い出す。昼餉の膳に添えるのに丁度いい夏の野草をまずは採りにいくために、裏梅は古家の廊下を静かに歩き去った。
終
あとがき
冒頭引用は一番好きな恋愛映画「ピアノ・レッスン」の主題曲のタイトルです。これを延々聞きながら書いてました。
脳内プロット自体は春の山犬を書いたすこし後にできてたのですが、群像劇書くの大変だな…とか他に書きたいものとかできたりとかで寝かせており、五条過去編がアニメ化したので丁度いいかもと二年越しに着手しました。
脳内イマジナリー下々ちゃんが「甚爾はそんなこと言わない……」と難しい顔をしてるのをなだめすかしながら甚爾パートを書いてました。
五条と夏油をまともに書いたのは初めてかも。
裏梅ちゃん視点を書くのも初めてかと思ったけど「柘榴の接吻」が一応そうだったかな?
あと銃のモデルはウィンチェスターM1912です。