伏黒甚爾の現在地が確定されたという連絡が五条悟のもとへ届いたのは、夏の夜空が白々と明け始める頃だった。その場所は青木ヶ原樹海、トレッキングコースからは大きく離れた奥地の魔境。そこが目的地だったというよりも、追っ手を撒くために身を潜めた可能性が高い。ここからは車を飛ばして2、3時間というところだろう。悟はさっそく寝ている恵を起こして出発することにした。
あの甚爾の息子というのなら、連行するのに多少手こずるかと考えて誘拐前提で接触しに行ったが、伏黒恵は案外あっさりと悟についてきた。ホテルに着いたあとは手っ取り早くルームサービスで特上寿司その他好きな食事をアレコレ注文して卓を囲んだ。ついでだからタブレットで甚爾の地下格闘を撮影した動画、特に相手を病院送り(全治3か月)にしたベストバウトを再生して観せてやったのだが、恵は雲丹をつまみながら「食事中に血生臭いもの見せないで下さい」と言って顔をしかめていた。面白いのに。甚爾が闘うところを見るのは、アイツが強い生き物であることを実感できて悟は楽しい。人の話を真面目に聞かないのが玉に瑕だが、何だかんだで仕事はきっちりこなす賢さを備える自慢の猟犬だった。素質によっては、遺伝子を継いでる息子のほうも新たに身内に加えてもよかった。だが、先程悟の部下を一人昏倒させたとはいえ、恵は甚爾と違って頑丈さに欠ける見た目であった。打たれ強くなくては悟の下では生き残れないだろう。
まだ眠そうな恵と連れてきた部下たちとともにアルファードに分乗して出発する。おまけの傑がごねてきたので仕方なく悟と恵と同じ車両に乗せることになった。宿儺陣営の者に妨害工作をされないように、あのカフェを出た時点で傑と恵の通信端末は没収している。だから傑は恵のそばにいる以外大したことはできないはずだが、油断はできない。かつて一度は、悟の相棒と認めた男だったのだから――なのに、どういう巡り合わせなのか、今は悟に敵対するような立ち位置にいるのを是としているようだ。恵にさり気なく邸に戻るよう促したのも、それを機に恵を逃がすか籠城でもする気だったのだろう。気に入らない。そんな傑は三列目に押し込んで顔を見ないで済むようにしていたが、背後からため息交じりに話しかけてきた。
「飼い犬一匹の捜索に、わざわざ五条家当主が出向いてきたのかい」
「アレの手綱握れるのは僕くらいしかいないからねー」
「……の割には、簡単に逃がしてしまったようだけど」
「うるさ~い!」
「自分の意思で離れていったのなら、放っておけばいいじゃないかーー私のときみたいに」
皮肉めいた声音で傑はそう言った。
「……はぁ?」
悟は車窓を流れていく朝靄を眺めたまま毒づいた。あの日ーー傑が理由も告げずに悟のもとを去ったとき、追いかけなかった理由は、どうせすぐに戻ってくると思ったからだ。長い付き合いのなかで、喧嘩や意見の相違は何度もあった。それでも傑は悟の親友だった。そのことに確信を持っていたから待ち続けた。そうしたらいつの間にか十年以上経ってしまっていた。もはやこれは意地なのだ。
「……甚爾が自分の意思で動いてるかどうかはまだ分かんないでしょ。オマエだってホントに自分の意思だったか?うちの古参連中にろくでもないこと吹き込まれたんじゃないの?」
後ろで傑がふっと笑った。
「大したことは言われてないよ。下賤の身の程知らずと言われたくらいさ」
「くだんね~。ジジイどもの嫉妬くだんね~」
「そうだねぇ。聞く価値もない」
車が都会を抜けて開けた郊外を走り抜けるにつれ、車内は新鮮な朝の光に満たされていく。その柔らかいが眩しい光はまた、悟の中で目を反らしていた感情も徐々に照らし出していた。悟は傑に問い詰めたかった。悟のもとを離れたのは、失意なのか、裏切りなのか、それとももっと切実な理由があったのか。納得のいく答えが欲しかった。昨夜再会したときから……否、十年前からずっと。今、この捕獲作戦前の何をするでもない間隙の時間は、絶好のタイミングに思えた。それでもやっぱり意地があるから、素直な言葉にはできないが。
「――僕のもとで適当に働いてりゃあ一生安泰だし、楽しかっただろ。それじゃあダメだったわけ?」
傑は、それに答える気配がなかった。悟は彼のほうを振り返る代わりにその表情を想像した。困ったような笑みを浮かべている顔が明瞭に浮かんだ。悟の何が傑を困らせているのか、どうにも分からないけれども。
「……アンタは、宿儺に似ているな」
ふと静かな第三者の声が聞こえて、となりを向くと恵が横目で悟を見ていた。
「自分一人いれば満足できるのに、何故もっと欲しがるんだ?」
脈絡のない問いに虚を突かれて反応できない悟をおいて、恵は続ける。
「ごねる元気があるなら、本当に飢えてなんてない。本当に失ったことなんて……」
悟を見ているようでもっと遠くを見つめるようだったその目が、何かをひらめいたように瞬いた。
「……そうか、だからアイツはうちを出ていったんだな……」
飢えに耐えきれなくなったんだ、と小さくささやいて、恵は目を閉じた。
「はぁ……?」
突然問いかけられた上に勝手に自己完結されて、こちらは困惑する他ない。
言われるまでもなく、悟は自分がこの世に爆誕したときから完璧な己に満足していた。幼少の頃”偶然”交通事故に巻き込まれ両親が死に悟だけが生き残ったのだって、自分が最強の存在だからだと自覚していた。金や権力を求める有象無象に常に狙われている悟の周囲では、弱く壊れやすい人間はすぐに死んでいく。それにいちいち傷ついたり食欲を無くしているようでは、一族の頭領は務まらない。とはいえ、その有り様は見ていて可哀想だし、面白いものではない。だから悟が楽しく生きるために、強い者たちを求めた。傑も甚爾も強者の部類だったから、安心してそばに置けたのだ。それは欲張りだろうか?
「よく分かんないけど、何か僕八つ当たりされてない?……って、寝ている!?」
いつの間にか恵は座席に頭をもたれて寝息を立てていた。悟は脱力する。
「何だったんだよ……寝言?」
「早朝に叩き起こされたからねぇ……」
後ろから苦笑いの声が聞こえた。
「オマエはコイツが言ってた意味分かんの?」
何の気無しに訊いてみると、傑はさらりと答えた。
「そうだねぇ、例えば何かが自分の手を離れていってしまったあと、自分の臓腑がもぎ取られたような痛みを感じたとしたら、それは”失った”という実感になるんじゃないかな」
「……ふぅん?」
自分はその感覚を知っているだろうか。例えば親友が姿を消したあと、己が一体何を失ったのかを自問するには、悟の日常は忙し過ぎた。それに、最強であり続けるためには痛みに鈍くなる必要がある。
「オマエはそれを知ってんの?」
「知っているよ」
悟は今度こそ、傑のほうを振り向いて顔を見た。かつての親友は微笑を浮かべていたが、目を合わせてはくれなかった。
「例えば、君から遠く離れて、この見知らぬ土地にたどり着いたあと、かな」
悟は何と応えたらいいか分からなかった。いつもは無駄に動き回るこの口がうまく動かない。だったら何で。
傑は目を伏せ、しっかりと握り合わせた己の両手を見つめて、悟の声なき問いに応えた。
「……けど、それでも、君のもとを去らなければ、私の欲しいものを得られなかったんだ」
やがて悟らの乗った車は、早朝の雲の中にけぶる霊峰の目前で国道を逸れ、樹海の奥へと続く林道の前へ到着した。先着していた偵察班の部下たちが、隠密に樹海の中へ侵入するためのルートを確保していた。先行して森に入った真希と真依が、そろそろ甚爾の姿を見つけ出す頃合いだろう。 悟は車中での応酬を一旦心の片隅に追いやって、目の前の作戦に意識を集中することにする。悟のあとからあくびをしながら車から降りてきた恵ににっこりと笑いかけ、その右腕を取って、ポケットから出した手錠をかける。そしてすぐさまもう片方の錠を悟の左腕につないだ。恵は目をぱちくりさせ、傑が顔をしかめる。
「悟……そこまでするかい?」
「迷子にならずに済むし、人質だって分かりやすくていいだろ?演出大事!」
「宿儺も目にしてしまう可能性が……うーん……」
腕を組んで唸っている傑のことは無視して、リアシートから拡声器も取り出して装備する。これで準備万端。
宿儺のことは存在くらいは知っていたが、縄張りが東西で異なるために悟自身とは何の因縁もなかった。だが、奴がずっと傑を抱え込んでいた事実を知った今はもう違う。これくらいで宿儺のことも煽りちらかすことができるなら、鬱憤晴らしができて儲けものだ。この先に待ち構えるものを想像して、悟はうきうきとした気分になってきた。楽しいことを考えれば、心は哀しみや寂しさから守られ、血が巡って体調も良くなり、幸運も舞い込んでくる。それこそが己の強さの秘訣だ。そうして悟は浮足立った足取りで恵を引き連れ、夜が明けて尚昏い闇を抱く森の中へ足を踏み入れた。
******
「はは、ホントに乗り込んできたんだな、うちのバカ殿は」
森の中を潜行していた真希は、端末に届いた通知を確認してそう笑った。
「ちょっと、静かにしてよ」
真希の後ろについて周囲を警戒している真依はそうたしなめる。
「緊張感ないわけ?」
「つってもなぁ、これじゃあせっかくの装備が出番ないぜ」
真希はちょうど前方に見つけた物体をショットガンの銃口でつつく。樹の幹に大降りのナイフで標本のように縫い止められたそれは、人間の男の死体だった。見るからに堅気ではない、例の大陸マフィアの戦闘員で間違いないだろう。死体はそれ一つだけでなく、これまで二人が辿ってきた足跡のあちらこちらに様々な事切れ方で倒れていた。真希たちの任務は偵察のみであったが、彼らとエンカウントする可能性は高いと事前に聞いていた。だからはりきって準備をしてきたのに。
「派手に実戦できるの楽しみにしてたのによ」
肩を落とす真希に反して、真依の顔はこわばっていた。
「気づいてないわけじゃないでしょ、この気配……絶対やばいわよ、もう帰りたいんだけど」
「……そうだな」
どの死体も尋常でない膂力を持った相手にねじ伏せられるように殺されていた。それだけ見れば甚爾の仕業とも考えられる。だが、森の奥へ進む度に濃くなっていくこの気配は、彼のものとは思えない。甚爾はその大きな体躯に似合わず、とても存在感の薄い男だ。全く痕跡を残さず行方をくらます才能があるから五条もてこずるほどだ。その完全に制御された気配と、今二人が浴びている全包囲掃射のような気配は正反対だ。タクティカルベストで覆われた背中をも震わせてくる鮮烈な殺意。五条は甚爾のことをよく猟犬と呼んでいたが、同様に例えるなら、この気配の主は狂犬、あるいは猛獣だ。
道しるべのパンくずのように点々と落ちている死体の状況を見るに、まず甚爾が森に侵入し、それをマフィアたちが追い、更にそのあとを、潜行前に報告で聞いていた宿儺とかいう第三勢力の者たちが蹂躙していったと推測できる。つまりこの気配を辿った先に、おそらく甚爾もいるのだ。果たして無事だろうか。
木々の連なりの切れ目に至り、真希は身を潜ませながらその向こうを観察した。ゆるやかな傾斜の岩場を数メートル下るとひと跨ぎで渡れる程度の小川があり、朝日があたって輝いている。その先には樹木と藪が絡み合っていて深い陰ができており、見通すことができない。そして気配の主は小川を超えてその陰に入っていったようだ。
「あそこか……」
「まさか突っ込む気じゃないわよね」
「流石にな……」
そこまで身のほどを知らないわけではない。この獣は真希たちの手に負えないことは直感で分かる。ここで撤退しても甚爾に恨まれたりはしないだろう。五条は文句を言うかもしれないが知ったことではない。あとは自分で対処してもらおう。この場の座標を手早く端末で送信し、二人は静かに獣道を引き返した。
******
夜露が未だ降りたままの朝の森の中で、似つかわしくない乾いた音が断続的に響いている。銃声だ。濡れた藪の合間を甚爾は音もなく駆ける。適当な低木を見つけてそこに身を隠し、追手の姿が現れるのを待つ。突然の闖入者たちに辟易したのか、カナヘビが甚爾の足元をのったりと通り抜けて草陰へと消えていった。
あの地下闘技場から追ってきた男たちは、森に入った当初は迷いなく逃亡者の甚爾に狙いを定めていた。しかし、現在それは掻き乱され、混迷を極めていた。複数人いたはずの追手の気配はいつの間にか一人しかいない。まもなく甚爾の視界に現れたその男は哀れにも息を切らし、足をもつれさせながら己の背後の闇に向けてでたらめに発砲している。甚爾を始末するという任務など頭から抜け落ちてしまっているようだ。それもそうだろう。今甚爾とその男の後方からは、得体の知れない狂暴な殺気が迫ってきていた。かつて闘犬を育てていた甚爾にとっては馴染みのある、獣のように原始的でいっそ純粋ともいえる捕食者の気配。だがそれの正体は犬などではない、おそらくは人間だ、それだけは男と同様に心中困惑している甚爾でも本能的に分かる。甚爾は呼気を抑えて己の存在感を無にするよう努める。背後数メートル先は森が束の間開けて岩場になり、ささやかな小川が流れていた。そこから差し込む陽光により、追手からみると甚爾の潜む低木は逆光で陰になり、逆に甚爾からは追手の男の様子をよく見てとれた。追う立場から追われる立場になってしまった男はハンドガンの残弾が尽きたことに気づいて呻き、震える足で駆け出そうとした。その逃避が許されるはずもなく、森の闇が男の体にからみついた。大きな手と腕が男の頭を捕らえる。抵抗をする間もなく、その首がぐるりと捻られ、頚椎が折られた音が虚空に響いた。只の肉塊となった男の体がどさりと地に倒れる。そして静寂が訪れた。甚爾はその森の静けさに同調する。だが災禍をやり過ごすことはできなかった。
「隠れても無駄だ。オマエの匂いはもう覚えたぞ」
捕食者の視線は、逆光で陰と同化しているはずの甚爾のほうへまっすぐ向いている。闇が人の形になってこちらへ近づいてきた。赤毛の大男。獲物をひたと見据えるぎろりとした眼。にやにやと笑っている大きな口。背には猟銃を背負っている。それを甚爾に向ける素振りはないが、全く安心できない。得体の知れない強者と対峙しても、普段の甚爾ならむしろ一戦交えることを望むところだが、今回ばかりは事情が違う。なぜなら――
「オマエ、〈山間〉に行くつもりだろう」
大男の言葉に甚爾は驚いて息を呑んでしまった。今ではあの土地の者しか使わない旧い呼び名。何故かそれを知っている大男は笑みを深めた。
「当たりか。だが、今帰っても恵はそこにいないぞ」
久方ぶりにその名を聞いた。恵。甚爾の息子。そしてアイツの忘れ形見。
甚爾の夢枕にやたらとアイツが立つようになったのは、〈山間〉を出奔してからのことだ。夢の中では甚爾は自宅の居間でごろ寝している。昼下がりの陽光を背にしてアイツは甚爾の傍らに座り、ただ黙ってこちらを見ている。いい年をしてふらふらしている甚爾を心配しているようでもあり、しようのない奴だと苦笑しているようでもある。とっくの昔に死んだというのに御苦労なことだ。甚爾では大して幸せにしてやれなかったのだから、さっさと成仏して楽になればいいものを。いや、これはただの夢なのだ。己の未練が見せる幻に過ぎないことは分かっている。だがその夢を見た翌日は何となく寝覚めの悪い思いで、故郷に残してきた恵に端金を送るなどしたことも幾度かあった。その夢が変化をみせたのは、数ヶ月前のことだろうか。いつものように座っているアイツの隣に、渾が並んで座るようになった。甚爾が育てた最後の、そして最強の闘犬。その渾が生まれたのはアイツが死んだずっと後のことだ。両者に全く関わりはないはずなのに、夢というのはでたらめなものだ。だがそのささやかな変化に、甚爾はずっと違和感を覚えていた。アイツと渾は、ただ穏やかに甚爾を見つめているだけだ。だが確実に何かを訴えている……ような気がしてならない。やがて寝ても覚めてもそのことが頭から離れなくなったので、甚爾は一度〈山間〉へ帰ってみることにした。
〈山間〉において甚爾の家は〈犬屋〉と呼ばれていた。文字通り犬を扱う家業で、山犬の昔話に準じた神事――闘犬賭博に出すための闘犬を育て訓練していた。〈山間〉のなかでは旧い家柄のひとつだが、それに見合った尊敬を受けているかといえばそうでもない。村八分にされるほどではないが、畜生を扱う仕事はどんな共同体でも一段下にみられるものだ。甚爾もまた例外ではなく、犬臭いなどとからかいの種にされる度に相手を殴り飛ばしたりしていたらいつの間にか喧嘩が強くなった。そんなところに嫁に来たアイツは随分と物好きな奴だったが、子どもを産んですぐに死んでしまった。その子ども――恵は父親に似て愛想のない奴に育ったが、犬たちの面倒はよくみていた。例によって学校では家業のことで因縁をつけられるのか、ときおり生傷をつけて帰ってきた。やられるばかりではなく、きっちりやり返しているようだったが。そのうちグレて家出するかもなと思っていたが、それでも恵は犬たちを可愛がっていた。〈犬屋〉の血のさだめによって苦労させていることは分かっていたが、父親として何か報いてやろうというような、殊勝な気持ちを持てるほど甚爾は人間ができていない。一応の義務として、飢え死にしないよう食わせてやるくらいで精一杯だ。ゆきずりの女と再婚をしてみたこともあったが、家業に馴染めなかったのか長続きはしなかった。もとより自分自身に辟易しているのに、息子といえども他人に気配りをする気概など持ち合わせていない。これは甚爾の生来の気質だ。それでもアイツに対してだけは、かろうじて人間らしいやりとりを出来ていたような気がする。そんな温もりを感じられた時間は、しかし儚く消えてしまった。唯一無二のアイツを失ったというのに、甚爾のこの体は病みもせず壊れもせず、発狂することもできなかった。己は細胞のひとつひとつまでが、絶望的に人でなしなのだ。それをはっきりと自覚してからは、恵が一人でも生きられるくらいに育つまでをじりじりと待ち続け、それからひっそりと〈山間〉を去った。以後はあちこちの土地で賭博や喧嘩に明け暮れた。どちらも勝つことが目的ではない。自分自身を完膚なきまでに叩き壊すことが望みだった。巡り巡って辿り着いた土地で五条に猟犬として飼われたのも、自分にはふさわしい境遇だ。あの陽気だが酷薄な若者に壊れるまで使い潰されることを、甚爾は切に望んでいた。
そんなやさぐれた甚爾を、アイツは夢路の向こうから黙って見つめていた。そこへ不意に渾の姿が加わったことに、甚爾は言いしれぬ予感のようなものを覚えていた。〈山間〉に何かしらの異変が起きたのか。渾の身に何かあったのを報せているのか。虫の知らせなど信じてはいないはずだが、その予感をどうしてか無視することはできなかった。それともただ、彼らの視線を浴び続けることに耐えられなくなっただけかもしれない。だから一度〈山間〉の様子を見に帰りたいのだと、説明したところで誰も理解しないであろうから、何もかも放って浮足立つように旅立った。だが同時に、平和な田舎町である〈山間〉に万が一でも五条の者たちやマフィアの連中を引き連れていくわけにはいかないと、冷静に考えてもいた。よって、あえて気取られやすい足跡を残しながら遠回りをして樹海に潜り込み、追手を撃退するか完全に撒くことをしなくてはならかなった。
その目論見が順調に進んでいるようにみえて、しかし思わぬ存在を釣り上げてしまったようだ。今目の前に立ちふさがる大男は闘技場でも見かけたことはない。五条の関係者とも思えない。当然〈山間〉にもいなかったが、何故かあの場所のことを知っている。〈山間〉と、甚爾の不可解な予感と、何かしらの因果を持っている者であるのだろう。ここで尻尾を巻いて逃げる選択肢はないようだ。彼が放っていた強烈な殺意はいつの間にか消えているが、甚爾を捕らえんと注視している気配は圧力を感じるほど強い。その圧に抗しながら、甚爾は藪の中から立ち上がった。
「宿儺様」
森の闇の中から、一人分の人間の気配が近寄ってきた。
「狐どもはすべて狩り終えました」
目前の大男――宿儺と同じく猟銃を背に負った、おかっぱ頭で袴姿の者がするりと姿を表す。
「裏梅、コイツが例のヤツだ」
宿儺が楽しげな声音でそう言って甚爾を顎で差し示した。裏梅と呼ばれた者はその無表情をこちらに向け、上から下までさっと視線をやる。
「助太刀致しますか?」
「不要だ」
そう指示されて静かに裏梅は一歩下がる。そのやりとりから目を離さないまま甚爾は己の装備を脳内で再確認した。地下闘技場から失敬してきたスタンバトンとグロックを現在も上着の下に忍ばせている。すぐに距離を詰めるのはこの獣には愚策だろう。まずはグロックで牽制しつつ隙をつくるのが妥当か。警戒体勢をとる甚爾をよそに、宿儺は何かを思い出すように目を上に向けた。
「はて、キサマに会ったら何と言えばいいのだったか……ああ、そうだ」
意を得たように破顔する。
「――渾は、俺が殺したぞ」
どくり、と心臓が拍動した音が聞こえた。
「……あ?」
「まぁ、そう言って差し支えなかろう」
心臓が吐き出した血液がこめかみの血管をぴきりと浮き上がらせる。宿儺の満面の笑みを見つめながら、ずっと抱えていた予感の正体を完全に悟った。いや、本当は初めから分かっていたはずなのだ。死んだアイツの隣に座っていたということは、渾もまた、彼岸へ渡ったということだ。あの勇猛で強い山犬が。人でなしの自分が成したもののなかで唯一誇れる存在。だがアイツは、まっとうな死を迎えていなかったというのか? 生まれついての闘犬の本分を果たせずに逝ったのか? にわかに胸中に沸いた熱湯のような感情。不愉快だが、不快感とは熱さが違う。これが怒りというものか。
甚爾の血色が変わったのに気づいたのか、宿儺は誘うように手を差し出した。
「さて、キサマはどうする?」
答えるまでもない。甚爾は重心を低く下げて余計な力を抜く。さっきまで考えていた牽制の道筋は打ち捨て、真正面から殴りにいく覚悟を決める。その反応を見て、宿儺は嬉しげに頷いた。
「殺しはせんから好きに打ち込んでこい。口が利けるくらいで止めてやる。でないとあとで恵が困るからな」
恵。そういえば恵は一体何をしていたのか。きっと今でも犬たちのそばにいるものと思っていたが、みすみす渾を死なせるとは、〈犬屋〉の務めを放棄したとでも――
「…………ありゃ?」
ふと、甚爾は気づいてしまった。あまりにも今更すぎて仕様もない事実に。
〈犬屋〉の仕事のやり方は、跡継ぎが成人する頃に伝授するのが慣わしだったが、甚爾は恵が十八になるかならないかという頃に出奔した。よって、甚爾は恵に家業についてほとんど何も伝えていない。給餌や運動などは見よう見まねでできるだろうが、闘犬の訓練はそういうわけにもいかない。だから、一人残された恵には〈犬屋〉の勤めなど果たしようもない。自明の事実だったが、そんなことにも思い至らずに、犬たちには恵がいるから問題ないと甚爾はこれまでのほほんと考えていた。まさに、犬も食わないような間抜けな話だ。夢路で渾は、甚爾の馬鹿さ加減に呆れていたのだ。
甚爾はいよいよ脱力してその場に座り込んだ。触れた下草がひやりと感じる。瞬間的に沸いた憤りはあっという間に冷めてしまった。犬たちへの責務を放り出した自分に、渾について怒る資格などない。
突然戦意喪失した相手に、宿儺がきょとんとしているのが少し可笑しくて、苦笑しながら両手を上げた。
「……煮るなり焼くなり好きにしろ」
宿儺もまた戦意を解き、不満げにため息をつく。
「なんだ、ああ言えばいいと聞いていたのに、逆効果だったな」
そこで控えていた裏梅がそっと声をかける。
「一刻も早く持ち帰るのが最優先かと」
「それもそうか」
への字であった宿儺の口元が綻ぶ。
「恵の名を口にしたらますます恋しくなってきた。我慢の限界だ。すぐに帰るぞ」
大男の風貌に似つかわしくない夢みるような瞳で遠くに視線を馳せている。この宿儺の正体は謎のままだし、恵との関係も不可解だし、何故甚爾を恵と会わせようとしているのかも分からないが、そのあたりは追い追い知れるのだろう。逃避行の目的をほぼ自己の内で解消してしまった甚爾は、完全に流れに身を任せる心持ちでいた。もう色々どうでもいい。
そのとき、離れた場所から新たな人間の気配を感じ取った。甚爾は反射的に背後を振り向く。そこにはさっきと同じように朝日にきらめく小川。その向こうのなだらかに積み上がる岩場の上に、青年らしき人影が二人現れた。予想外だが、そのどちらにも見覚えがある。それは――
「おはよーございまーす!」
一人が手にした拡声器に声をぶつける。静かな森にキンとした大音量が響き渡った。遠くで驚いた鳥たちが羽ばたく音が聞こえる。
「迷子の伏黒甚爾クン!保護者の方がお待ちです!直ちにサービスカウンターまでお越しくださーい!」
なーんてね、と戯ける声と姿は紛れもなく、五条悟であった。早朝にも関わらず躁状態で岩の上に仁王立ちしている。探されていることは分かっていたが、当人が出張ってくるのは意外だった。
「僕たち楽しくやれてると思ってたのに、逃げ出すなんて僕ぁショックだよ。でも嫌だってんならしょうがないかぁ~」
こちらは陰になっていてあちらからは姿が見えないはずだが、異様に勘のいい五条はここに甚爾がいることを確信しているのだろう。声明は続く。
「でもさー、借金はまだ残ってるんだよね。このままじゃ筋が通らないから、息子くんに代わりに払ってもらうね!」
そう言って五条は意気揚々と左手をこちらに振った。その腕につられるように、隣にいるもう一人が右腕を振っている。どうやら手錠で繋がれているようだ。その仏頂面の顔はどこからどう見てもあの恵だった。会うのは何年振りだろうか。
「闘技場じゃアンタみたいに稼げないだろうから、ペットショップで売るのが一番いいかな?ちょっと薹が立ってるけど面がいいからけっこう良い値段つくと思うんだよね。どーやら中古みたいだけど言わなきゃ分かんないしね、アハハ!」
よく見ると更に後ろには五条の護衛係の真希と真依もいた。品のない大声に呆れ顔で五条の背中を見ている。人を煽る言葉を吐くときの五条はいつも最高に楽しそうだ。相変わらず性格が悪いな、と心中で嘆息していると、急にぞくりと鳥肌が立って甚爾は顔を向き直した。宿儺は表情こそ先ほどと変わらず笑っていたが、双眸が不穏にぎらついていた。霧散していたはずの殺意の気配が徐々に凝っていくのを肌で感じる。
「背後を押さえます」
そう早口で言って裏梅は風のように闇の中へ走り去った。宿儺は無言で背から猟銃を降ろした。
「あ、今なんか嫌~な雰囲気になってるの、甚爾かな? それとも近くにいる誰かさん?」
宿儺の得物はクラシカルなウィンチェスターのポンプ銃だった。そこに詰めていた弾を宿儺は無造作に排出し、懐から新たに弾を取り出す。
「どっちでもいいけどさ、今から三つ数えるうちに、甚爾が自分でここに出てくるか、お出しされなかったら、この子はドナドナ大決定だからね! あーあ、可哀想だなぁ泣けてきちゃう……親の因果が子に報い、ってやつ?」
そう芝居がかった泣き声で言いながら、五条は恵を自分の前に押し出した。恵は憮然とした顔でただ前を見つめている。昔から、甚爾に泣き言など一言も言ったことがない子どもだった。はなから頼りにならないと分かっていたのかもしれない。
これまで甚爾が見てきた五条は、堅気を修羅に巻き込むほどの外道ではなかったが、悪ふざけかと思っていたら本気だったと周囲が慌てふためくような出来事も何度かあった。今回もどこまで本気か計り知れない。陽気に振る舞っているが、どうやら機嫌が良くなさそうな嫌な雰囲気があるのはあちらも同じだ。逃げる事情がなくなった甚爾としては、大人しく出頭するのが無難ではあるのだろう。――否、今問題なのは、甚爾が何をするかではない。隣では宿儺がグリップをコッキングして弾を装填する音がした。黙って様子を伺う甚爾に、宿儺はにっこりと笑う。
「一粒弾に変えておいた。この距離と角度なら俺が的を外すことはない。安心していいぞ親父殿」
「……俺は出ていっても構わねぇが……」
「俺も構わんぞ。まぁ、キサマが日向に出るより先に、あのクソガキは黄泉路行きだがな」
「そこまでのことか?」
「俺ですらまだ恵に鎖をかけたことはないぞ。血を見るまでは気が済まん」
訳の分からないことを言いながら宿儺は銃を構える。同時にまっすぐな殺意が照準の先に向けられる。隠す気もないそれはあちらにも届いているだろう。岩場の上に堂々と立っている五条は確かに格好の的だ。だが五条はめっぽう悪運に強い。助からないと思うような死地を何度も切り抜けてきている。今とて向けられる殺意を意に介さずに、誰もが認める美しい容貌で笑っている。まるで死にそうな気がしない。
「じゃあさっそく数えるよ。いーち!」
だが、この獣が人になったような男には、五条の悪運ごと撃ち抜いて弾を届かせることができそうな気迫がある。五条の完璧な形をしたあの眼に鉛玉が貫通していくイメージが浮かぶ。
「にー!」
一体どちらの意志が勝つのか。この人命が懸かった緊迫した空気の只中で、場違いな博打の興奮が甚爾の内に湧き上がる。思わず拳を握った。
さん、と五条が発する寸前に、沈黙していた恵がおもむろに身を翻して、五条に立ちはだかるように正対した。
******
裏梅は森の中を疾走し、小川の上流側を迂回して対岸の木々の合間に忍び込んだ。最初に目にしたのは、幹にもたれて立っている夏油。数メートル離れた岩場の上に五条の手下らしき武装した女が二人、そしてあの軽薄な若者――事前の調べによれば伏黒甚爾を飼っていたという五条家の当主と伏黒恵の後ろ姿。裏梅はまず夏油に駆け寄り声をひそめて叱咤した。
「キサマ、警護の任務はどうした」
「もちろん、継続中だよ」
夏油はしれっとそう言い放つ。
「どこがだ」
「こうしてそばで見守っている。今のところ命の危険はないよ」
「そういう問題ではない」
夏油は有能な同僚である。かつて熾烈を極めた相続争いの際は、裏梅と同じく真っ先に宿儺の配下に着いた先見の明と行動力があり、信頼に足る従者の一人だ。そんな夏油なりの思惑があるのかもしれないが、敵の捕虜になってこんなところまで連行させられている時点で論外である。コイツをどうしてくれようかと睨みつける裏梅に、夏油はしおらしくするどころか反論してきた。
「伏黒君自身が行くと言ったのだから仕方ない。そもそも君の指示の仕方がよくないよ、裏梅」
「なんだと?」
「警護と一言で言っても色々とやり方がある。護るものが将か姫か虜かで対応のレベルが違う。君はそこをはっきりさせてくれなかったじゃないか」
裏梅は二の句を告げられなかった。それは、裏梅自身も迷いがあったところだったからだ。もし恵を完璧に護ろうとするならば、大学など辞めさせ戸籍も捨てさせ、所有しているどれかの孤島にでも隠遁させるのが一番確実だ。だが主人の宿儺はそんな命令を下さない。裏梅が進言してみたこともあったが、そんなことをしては面白みがないと返された。だからひとまず警護の人間を張り付かせる方策を取っているが、それが中途半端であることは重々承知している。しかしそうする以外にどう護れというのか。恵が宿儺にとって必要不可欠であることは理解しているが、従者の我々がどう対峙すべきなのかはまだ曖昧だ。だが今は夏油と口論している場合ではない。五条が拡声器を通してカウントダウンを始めるところだった。すぐにでも張り倒したいが手下の二人が邪魔だ。
ところが、3カウント目の直前に、すっと恵が五条の正面に立ちふさがった。意表を突かれたのか、五条の発声が止まる。恵が空いている左の人差し指で五条を指す。
「アンタのやり方はよくない」
恵は静かにそう言った。五条は拡声器を下ろして答える。
「そう? シンプルでいいでしょ」
「もしアンタが甚爾を奪ったら宿儺たちは逆襲する。宿儺がアンタを攻撃したらアンタの仲間たちが報復する」
恵の指が夏油と裏梅を、そして五条の後ろの女たちを順繰りに指す。
「ここでどっちが勝っても戦争になる」
一瞬だけ、裏梅が背負っている猟銃に目を向けたようにみえた。そう訴えられても五条はにんまりと笑う。
「それもいいんじゃない。お祭りみたいで楽しいかもよ?」
恵が渋面をつくる。
「俺は御免被る。来週から試験期間で忙しいんだ。付き合ってられない」
不意の恵の横槍で、束の間、向こう岸との間で張り詰めていた空気にぽっかりと間が空いた。そこにいた全員が恵と五条に注目している。そのときふと、恵の指がこちらに向けられていることに気づいた。裏梅がそこを注視したとき、さり気なく、しかし確実に意志をもって、その人差し指が軽く曲げられたのが見えた。ほんのわずかな仕草、まるで何かの引き金を引くような。その意味を意識が認識するよりも先に、無意識が呼応して即座に身体が行動を始めた。その自身の特異な反射神経が反応するのはこれが初めてではない。宿儺のそばに仕えているときは常に研ぎ澄ませている感覚――言うなれば、生来備わった従者の本能。すぐさま裏梅は、手下の女たちが恵の言動に気を取られている隙をついて、瞬歩で一気に脇を通り抜け、恵との距離を詰めた。同時に背負っていた銃を前に差し出す。迷うことなく、恵の左手がしっかりとそれを掴んだ。主人の趣味に合わせたヴィンテージの散弾銃。
「あ!」
五条が声を上げたときにはもう遅い。裏梅は恵を背にして二人の間に割り込み、最速で針を操り手錠の鍵を外して、五条から数歩分の距離を取った。ものの三秒で形勢は変わった。
「え~!?すげ!忍者かよ!」
五条の戯言は無視して後ろの恵に声をかける。
「弾は三発。扱い方は……」
「虎杖の爺さんが猟友会に入ってたので」
こともなげにそう言って恵はグリップをスライドさせた。そして眼下に生い茂る森のほうを向く。
「ありがとうございます、裏梅さん」
そのとき裏梅の胸中に到来したのは、満足感だった。主人のどんなサインも見逃さず、先を読み、過不足なく行動する。見返りは求めないが、もし労いが与えられればそれは至上の喜び。これまで宿儺ただ一人にしか発露しなかった忠の心が、今ここでも満たされていることに裏梅は顔に出さずに混乱していた。ついさっきの夏油との問答が思い出された。唯我独尊に突き進む宿儺の道をふさぐことなく、後ろについてその背を護ってきたように、この方の背も同じやり方で護ればいい――そういうことなのか。
そう天啓を受けているあいだにも、恵は銃を腰だめに構え、声を張り上げた。
「いるんだろ宿儺、出てこい!」
恵はためらいもなく、森に散弾を撃ち込んだ。発砲音が殊更大きく虚空に響く。間を置くことなく次弾を装填し、立て続けに残りの二発も放たれた。
*
その一連の攻防を、対岸の宿儺は照星越しにすべて見ていた。恵が五条悟とその仲間らの注意を引き付け、その隙に裏梅が恵を五条から引き剥がす。そして、恵の手には猟銃が握られていた。宿儺の名を呼びながら、腰で構えて発砲する。射程距離の範囲内であり、銃口の角度はおおむね合っているが、あのような盲撃ちではそうそう当たるものではない。当てる気もないような無造作な手つきで二発、三発と放たれる。宿儺も当たる気などなかった。宿儺が当たらないと断定した攻撃は決して宿儺に届かない。運の話ではなく、宿儺ほどの人間が持つ強い確信は、時として世界にも影響を及ぼすことができるというだけのことだ。
だが、こちらに銃口を向ける恵を視認したとき、宿儺が強く抱いたのは斥けんとする意志よりも、近づきたいという欲望だった。そこに万有引力のごとく、引き寄せられる力と引き寄せる力が同時に発生する。抗うことのできないその作用によって、三発目の散弾は銃声とともに宿儺の右の二の腕をかすめていった。衝撃で半歩後退する。一拍遅れてじわりじわり、痛みと熱が立ちすくむ宿儺の体に染みてくる。数秒ほど呆然としたあと、事態を把握した宿儺は己の得物を地面に置いた。そのまま引力に逆らわず陰を離れて日の下に出る。
向こう岸では恵が裏梅に銃を預けたあと、確かな足取りで岩場をゆっくり降りてきた。浅い小川の上で両者は合流する。スニーカーが水に濡れるのも構わず、恵は澄ました顔で宿儺の真ん前に立った。
「やけに素直に出てきたな」
宿儺は右腕を上げて見せてやる。そこに溢れ出ている鮮血を見て恵は目を瞬いた。
「……当たったのか?」
「あぁ、お見事」
意外そうな様子の恵は手を伸ばしてその血に触れた。その指が鮮やかな赤に染まる。一昨日の晩に宿儺に体温を与えたその手は今、銃創にこもった熱を触れたところから吸い取っている。それもまた心地よい。
「痕、残るか?」
「おそらくは」
傷口をまじまじと見ていた恵の目が宿儺を見上げる。その顔を宿儺もじっくりと見据える。対岸にいたときの表情とはまるで違う。眉間から力が抜けて、口角がわずかに上がり、瞼を大きく開いて、瞳は朝日と清流を反射して輝いていた。宿儺がずっと見たいと望んでいたもの。それはまるで、狩りを成功させた若い猟犬のように得意げで、小生意気で、歓喜が全身からにじみ出ている。その瑞々しさは宿儺の心身にも染み込んで潤した。さっきまでの臓腑を焼くような苛立ちはきれいさっぱりなくなっていた。それどころか傷の痛みも周囲の有象無象も遠ざかっていった。今宿儺の前にあるのは恵という存在と、それを照らし出すための陽光だけだ。
恵の腹を歓びで満たしてやろうと行動していたら、廻り廻って、宿儺の腹にもなみなみと注がれて溢れそうになっている。不思議な因果だ。否、単純な原理だ。己の手によって恵の瞳を生き生きときらめかせることが、宿儺の何よりの歓びなのだから。もうじっとはしていられない。
宿儺は恵を強く抱きしめて、溢れそうな歓びを一滴もこぼさず恵のなかに注ぎ返すために、唇を深く重ね合わせた。