「夏の猟犬」(2023.12) - 1/3

「春の山犬」の続編です

ハッピーエンド現代パロ時空
今回は群像劇形式なので宿伏要素は最初と最後くらいです
出てくる人たち→五条・夏油・甚爾・裏梅・真希真依
犬は死にませんがモブはサクッと死にます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

The Heart Asks Pleasure First
– Michael Nyman

 

日没が遅い夏の夜も、気づけばとっぷりと更け、青々と繁った中庭からは虫の声が聞こえている。寝室は適温で、ベッドに横たわる宿儺の右腕の内には、いつものように恵がいる。こちらに背を向けていて顔は見えないが、麻の寝巻越しに伝わる体温の高さで今にも寝入ろうとしているのが分かる。
もう何年もこうして過ごしているような心持ちがするが、この青年と共寝をするようになったのはつい先の春からだった。かつての恵の家では寝場所が限られた故にそういう成り行きになったが、いくつも部屋のあるこの邸に移ってからも、宿儺は恵と褥を共有する心地よさを手放す気はなく、半ば強引に抱きまくらにされた恵は呆れていた。だが結局は順応して、今では宿儺よりも先に布団に入ってくつろいでいるような図太さをみせている。
現在も、大きな犬のようにしなやかに丸めた恵の背中が深い呼吸でゆっくり揺れるのを眺め、それにつられるまま宿儺も眠りに就きたかった。が、今夜はその前に伝えなければいけないことがあった。宿儺は渋々と恵の名を呼ぶ。
「恵、俺は明日家を離れる」
ややあって、恵が大義そうにこちらに体を向けた。
「ん……何だって?」
「明日は朝から出かけなければならない。帰りは翌日か、それ以降になるかはまだ分からん」
「へぇ」
恵は眠そうに目をしばたく。
「珍しいな、仕事か?」
「仕事ではないが、重要なミッションだ。俺が先導を取らなければならない。だが……嘆かわしいな」
「行きたくないのか?」
「いや、俺が望んで仕掛けたことだ。しかし、タイミングがよくない」
上の空の顔をしていた恵だが、宿儺の嘆きの理由を察したようだ。
「ああ……明日は、やる日だったな」
恵とは寝床を共にするだけでなく、そこで情を交わす仲でもある。最初の交わりからすこぶる相性が良かったがためにうっかり抱き潰してしまったこともあったが、紆余曲折あって、週に一度の頻度で今は落ち着いている。恵の腹の中を己で埋めてやれるこのひと時をいつも待ち遠しく思っているのに、今回は無念でしかない。だが重要なミッションのほうも、実を言えば恵に関わることであり、放り出すわけにはいかない。宿儺の鋼鉄の心臓が二つに引き裂かれるような思いだった。
悄気げている宿儺の胸板に、不意に恵が半身を乗り上げさせた。
「なら、今やるか?」
こともなげに恵がささやく。
「ただし、一発だけな。明日も朝から講義あるし」
宿儺は深々とため息をつく。
「……始めてしまえば、それだけで済むはずもない」
「だよなぁ。じゃ、この話はおしまいだ」
誘惑しておいてばっさりと切り捨てた恵は、その指で宿儺の左腕にある傷痕をなでていた。共寝するときによくやっている仕草だ。そしてなでられる度に、そこに老犬の牙が食い込み、恵の針が突き刺されたときの痛みをうっすらと宿儺は思い出す。その幻痛の上に恵の手の温度が重なる。
「つれないことを言う」
「それでひどい目に遭うのは俺なんだぞ。そんなに溜まってんなら、どっかよそで抜いてこいよ」
どんな卑俗な言葉を口にしても、恵の声はその瞳のように涼やかに碧い。
「アンタならいくらでも宛てがあるんだろ」
「――つれないことを言うな」
腕をなでていた恵の掌を宿儺の掌ですくい、温度を与え返す。
「今更、オマエでない者相手に勃たせる甲斐などあるものか」
傷痕を眺めていた恵の視線がゆらりと宿儺の顔に向けられた。そのまなこが、暗闇できらりと光る。
「……どうだかな」
実にそっけない返事だ。だが、その恵の目を覗き込めば、言葉とは裏腹に、密かな喜色を湛えているのを見て取れた。どうにもひねくれてはいるが、己の睦言で少しばかり恵の目の色を変えられたことで、今は満足するとしよう。
あの日〈山間〉の地で、恵の空虚を余すところなく埋めてやると宿儺は誓った。だが、今恵がその半身だけを宿儺の体に預けているように、心のほうも未だに半分だけしかこちらに預けてこない。体を拓き孔を穿ってやればその限りではないが、それは刹那の間でしかない。恵のすべてを抱えてやれないほど宿儺はやわではないことは承知しているはずだ。もっと素直に空腹を訴えることができたなら、その腹を今以上に歓びで満たしてやれるだろうに。そうしてためらっている間にも、季節は移り変わり、時は過ぎ去ってしまうのだ。
宿儺は恵の肩を力強く引き寄せて、唇を重ね合わせる。接吻は、毎日でも何度でも惜しみなく与えることができる交合である。舌と舌をすり合わせ、性感を昂らせない程度に、しかしじっくり丁寧に粘膜を慰撫する。就寝前にこうして程よい悦楽を与えてやれば、恵はあっという間に熟睡できるようになった。今だって、宿儺の舌に応えつつもすっかり目を閉じ、体から力が抜けていく。
こうして宿儺が恵に様々施し、反応を観察し、何か快で何が楽であるかをすべて把握することができれば、恵を真に満足させる術を見つけることができるだろう。手間のかかる厄介な作業だが、これまでの宿儺の人生に比べれば十分に刺激的で愉快な遊戯である。ひとまずは、明日のミッションの達成によって恵がどんな反応を見せるかあれこれ想像しながら、宿儺は眠気が訪れるまで恵の唇の味を堪能し続けた。

******

翌朝恵が目を覚ますと、本人の言通り宿儺の姿は消えていた。天気は快晴。恵はいつも通りに支度を済ませて大学へ自転車で向かった。数ヶ月の休学から復帰した直後は補講やら追試やらで忙しかったが、三ヶ月ほど経った現在は通常の時間割に戻っている。今日も何事もなく一日の講義と実習を終えた。宿儺が不在ということは、早く邸に戻らなくても文句を言う奴はいない。今は夏至を過ぎた6月の下旬、来週からは複数の試験が待ち構えているため、図書館で二時間ほど自習をした。流石に空腹を覚えた頃に切り上げて、帰宅のために構内の駐輪場へ向かった。
日没後の半地下の駐輪場は照明が点いているもののうら寂しく、恵が降りていったときにはひと気がないタイミングだった。勉強疲れでぼんやりと歩いていた恵は、突然後ろから腕をつかまれたとき、一拍反応が遅れてしまった。はっとする間もなく両腕を拘束され口を塞がれる。背後の不審者は黒いスーツを着た体格のいい男のようだ。とっさに恵は身をかがめて相手の足の甲を思い切り踏みつけた。拘束の手がゆるんだ隙に腕を振り放し、そのまま体を反転させた勢いで拳を振り抜く。狙い通りに不審者の下顎を横に殴り飛ばし、脳を揺らされた男はどうとその場に倒れた。人を殴るのは中学時代ぶりで手が痛かったが顧みる暇はない。恵はすぐさま、もと来た出入り口へ体を向ける。そこにはもう一人黒服の男がいて恵のほうへ向かってきていた。この駐輪場には奥まった場所にもう一箇所出入り口があるはずだ。なぜ自分がこんな目に遭っているのか見当もつかないまま恵は自転車の列を抜け奥の扉へ走り、飛び込もうとしたがそれは叶わなかった。眼の前で唐突に扉が開き、その向こうにいたのは、軽薄な丸グラサンをかけたひょろりと縦に長い男だった。その男は恵を見るなり、盛大に顔をしかめてこう言った。
「うっわー!アイツそっくりじゃん!」
は?と恵が一時停止するのと、背後で黒服が呻いて倒れる音が聞こえたのは同時だった。振り返ると、コンクリの床に伸びている黒服の傍らに、髪をハーフアップにして前髪を一房垂らした男が立っていた。
「大丈夫だった?伏黒君」
なぜか恵の名を知っている彼が、敵か味方かも分からない。見知らぬ人物たちに挟まれて、恵は緊張したままそろそろと壁に背をあてる。万策尽きたかと危惧したとき、
「……傑?」
背の高い男がそう呟いてゆっくりとサングラスを外した。美しい形の双眸が見開かれている。
「は?なんでここにいんの?」
もう一人の男は彼を見てやれやれとため息をついた。
「それはこっちの台詞だよ。悟」

「驚かせてすまないね。私の名前は夏油傑。簡単に言うと、宿儺の部下で裏梅の同僚だ。味方だよ」
夏油という男は恵たちを構内のカフェに誘導して、店奥の静かなテーブル席に腰を落ち着けた。
「……裏梅さんに確認しても?」
「いいけど、今は宿儺の手伝いしてるから連絡取れないかもよ。それから、そこにいる彼は五条悟という。西日本の大地主の家の当主で……まぁ、宿儺の同業他社という認識でいいよ。敵か味方かはこれから尋問しよう。さっきの黒服たちは君の手下かい?」
五条という男はさっきから渋面のままそっぽを向いている。恵と夏油はコーヒーを注文したが、彼の前には高々とクリームが盛られたフラッペが鎮座していた。
「はぁ?さっきからやたら馴れ馴れしいけどアンタ誰?こんな変な前髪野郎は僕の知り合いにいないんですけどぉ?」
さっき名前を呼んでいたというのにいけしゃあしゃあとそんなことを言っている。モデルのように整った美丈夫である見た目と、奔放な言動のギャップがすごい。常人ではないオーラが強すぎて、もしピークタイムの混雑時であったら注目を集めすぎていただろう。
「悟……ふざけてる場合じゃないよ。何だって伏黒君を拉致しようとした?」
「知らない変質者とはコワくてお話できないんでどっかいってくんない?僕はそこの伏黒恵君にしか用はないの」
テーブルの下でドカッという音がした。五条が夏油の足を蹴りつけたようだ。それでも夏油は涼しい顔をして言葉を続ける。
「まぁ……理由がなんであれ、伏黒君に手を出したら君でもまずいことになるよ。今手を引いてくれれば今回のことはなかったことにできるから。運良く今夜は私が彼の警護担当だからね、昔のよしみで穏便に済ませてやれる」
聞き捨てならない言葉を耳にして恵は夏油を見る。
「は?警護ってなんすか?」
「知らなかったのかい。君には裏梅が人をつけて見守りをしてるんだよ。さっきみたいな事態が起きたときのために」
宿儺の隙を狙ってる奴はいくらでもいるしね、と夏油は肩をすくめる。
「えぇ……」
「裏梅が信用を置けると判断した者たちで担当しているから、見聞きした君のプライベートを漏らしたりする心配はないよ」
あっけらかんと明かされた、大学生活をずっと見張られていたという新事実に気が遠くなる。五条がへっと鼻で笑った。
「宿儺に媚びへつらって就いたお仕事が、ペット君のお守りかよ。出世したねぇ~」
ペットじゃねぇ、と恵は反論しようとしたが、はたと考える。今の恵の生活といえば、主人に衣食住を与えられる代わりにその愛撫を受け入れる、愛玩動物のそれとどう違うというのか。考え込みそうになった恵に夏油は言う。
「窮屈かもしれないが、これは私たちの大事な仕事のひとつだから我慢してくれ。あとついでにお願いすると、末永く宿儺のそばにいてくれると助かる。君が存在するかぎり、宿儺は現状維持のためにちゃんと働いてくれるからね」
「……アイツが何か働いてるようには見えませんけど」
普段の宿儺といえば、恵があの邸にいる時間は必ず同じく邸内にいて恵に構ってばかりで、忙しそうにしているところなど一度も見たことがない。恵が大学に行っている間に何かしら仕事をしているのかもしれないが。
「……いつも居場所が分かって、お伺いをたてる目処がついて、返答を期待できて、かつおおむね機嫌がいいというだけでも、かつてに比べたら涙が出るほど有り難いんだよ……本当に」
夏油が切れ長の目を遠くに馳せて、そうしみじみと言った。よく分からないがこの人も色々と苦労をしているらしい。何となく信用できそうな気がしてきた。ズコズコとストローでフラッペを飲んでいた五条が口を挟む。
「大げさじゃね?現に今宿儺はここを離れてるだろ。その間そこの飼い犬君を借りるくらいで目くじら立てたりしないっしょ」
「悟は何も分かってないからそんなことを……」
頭を抱える夏油を遮って恵は五条に話しかける。
「とにかく、宿儺じゃなくて俺に何かさせるために襲ってきたってことですよね。ってことは……」
先程、恵の顔を見た五条が言った言葉を思い出す。
「――甚爾の関係者?」
〈山間〉の実家から家出して行方の知れない父親と、顔がうり二つだと恵は昔から周囲に言われていた。
「そう!」
五条がぐいと身を乗り出す。
「伏黒甚爾は僕のポチだから!脱走したのを連れ戻すためにわざわざ息子を捕まえにきたの!」
「は?」
「あー……」
「いやーひと目見ただけで分かったわ。オマエらまじソックリ!遺伝子コワ~!」
ギャハハと笑う五条が放った言葉をすぐには飲み込めない。隣では夏油がますます深く頭を抱えてこんでいる。
「ええと、甚爾はアンタに借金でもしたんですか?」
「そうだよ~。うちの裏カジノでハメられて尻の毛まで抜かれたの。でもなかなか頑丈で使えそうな奴だからさ、僕が買い取って飼い犬のポチにしたのさ!わんわん!」
「はぁ?」
何が面白いのかご機嫌な五条は喋り続ける。
「それでさ、最近うちのシマでコソコソやってる大陸マフィアがいてさ~、鬱陶しいからぶっ潰すためにポチを潜入させたんだよね。アイツらが儲けてる地下闘技場で連戦連勝で、結構人気の闘技者になったんだよ。こっそり手に入れた動画あるけど観る?」
恵は絶句する他なかった。かつて〈犬屋〉として闘犬を育てていた男が、遠い西の地で今度は自分が闘犬になっているというのは何という因果だろうか。おまけに親子二代で人に飼い犬と呼ばれるような有様もまた、馬鹿げた符丁のようだ。
「でもさぁ、ある日いきなりポチが闘技場から逃げ出したんだよね。僕のところにも帰ってこないし、行方不明。アイツも結構楽しんでたはずなのになぁ。何でだろ?」
心底分からないというような邪気のない顔で、五条は飲み干したカップの中をストローでかき回す。
「ま、捜索も大詰めまで来たし一両日中には捕まえるつもりだけど、また逃げ出そうとしても面倒じゃん?だから息子を人質にして説教してやろうと考えたわけ。あのギャンブル狂かつ戦闘狂だって一応は人の親だし、効果はゼロではないでしょ」
五条はびしりと恵の顔に指を差す。
「以上が君を誘拐しようとおもった理由。オーケー?」
「オーケー、ではない……」
五条の事情はだいたい理解した。その事情を恵に一切説明せずに暴力を行使しようとした思考回路は納得できないが。そこで苦々しい顔の夏油がおもむろに挙手した。
「……悟に伝えたいことがあるんだが」
「はぁ、何?」
「宿儺も、伏黒甚爾を捕まえに行ってるんだ」
「え?」
五条とともに恵も驚きの声を上げる。
「なんで?どういうタイミングだよ」
「我々は数ヶ月前から伏黒甚爾の所在を調査していて、例の闘技場のことを突き止めたときには、彼がそこを出奔した直後だった。そして、こちらの捜索の網にそれらしき人物の情報が引っかかったのが昨日のことだ」
恵は昨夜宿儺が言っていたことを反芻する。重要なミッションだとか仄めかしていたのは、もしやこのことだったのか。確かに三ヶ月ほど前、恵は宿儺に甚爾の行方を探してほしいと頼んだが、重要という枕言葉がつくほどのこととも思っていなかったし、こんなに早く見つけるとは想定していなかった。
「さっき進捗を聞いたときには、現在地を九割方突き止めたと……。このままだと十中八九、伏黒 甚爾のもとで君たちは鉢合わせるよ」
「あっはは。それだけじゃないよ」
五条は悪ガキのようににかりと笑う。
「報告によれば大陸マフィアの奴らも追手を放ってる。荒事用の戦闘員たちだろうから――血を見ることになるね」
「三つ巴か……そういえば、裏梅が久しぶりに武器庫の鍵を開けていたな……」
恵はさっきの夏油のように頭を抱えたくなった。宿儺は一度狙いを定めた獲物を絶対に諦めたりしないだろう。五条という男も似たような性格であることはここまでの言動を見てても分かる。お互いに譲歩しなければ衝突は避けられない。恵の預かり知らないところでぶつかるなら放っておけるが、今回のトロフィーはあの甚爾なのだ。そして、恵は決意を固めた。
「――わかった。アンタについていけばいいんだな」
「お?」
「え?」
五条と夏油が同時に恵を見る。
「それが甚爾に会える一番の近道だろうから。俺はアイツに伝えなきゃいけないことがあるんだ」
〈山間〉の祭りが終わったこと、〈犬屋〉が失われたこと、渾が死んだことを、今でも甚爾が知らないままというのは気に食わないのだ。
「その前にどこかの誰かに殺されたら困る。俺の用事が済んだらアイツをアンタの好きにしていいですよ」
「はは!いいねぇ!」
五条が高らかに笑い、夏油がため息をつく。
「危険だよ。それでも行くのかい?」
「はい」
「そうか……」
そして五条に向き直って尋ねる。
「伏黒甚爾の現在地を確定させ次第の出発だろう?」
「そんなとこかなぁ」
「なら少し時間があるだろう。伏黒君は一度邸に戻るかい?」
「そうですね」
着替えをしたいし、空腹が限界だから食事もしたい。
「おいおいちょっと待てよ」
五条が勢いよく椅子から立ち上がって宣言する。
「ただ今から伏黒恵君はホテルに軟禁しまーす!」
「はぁ?」
「アンタら何のん気なこと言ってるのさ。いつでも速攻出発できるように僕の近くで待機だよ。気が変わって逃げられても嫌だし」
「けど夕食の用意が……」
邸の冷蔵庫の中では、宿儺が作り置きしていった夕食が待っている。今朝ちらりと覗いてみると、鴨肉のローストのようだった。刻んだ夏野菜が和えられた、スパイシーな香りの自家製オレンジソースが入った容器も添えてあった。夏のディナーにふさわしい爽やかな料理だろう。もうすでにあれを食べるための口になっている。何より今日中に食べなければ傷んでしまう。
「飯なんて、僕が高級中華のフルコース奢ってあげるから~」
「胃もたれしそうなんでいいです」
「じゃあケーキバイキングにする?」
「人の話聞いてました?」
夏油が力なく首を振った。
「すまないね……彼もまた暴君なんだ」
「人聞き悪いなぁ、めちゃくちゃ優しくしてるじゃん」
言われずとも、絶対に意志を曲げないという気迫を五条からひしひしと感じる。鴨は諦めるしかなさそうだ。宿儺に対して申し訳ないという気持ちが湧いたのはこれが初めてかもしれない。
「あの夏油さん、宿儺の料理、もったいないんで俺の代わりに食べといてくれませんか……」
「えぇ……?いや、恐れ多いから……というか処刑されちゃうから無理。それに、私もこのままずっと君のそばについていなくちゃいけないから」
「はぁ!?」
五条がキッと夏油を睨む。
「オマエは招待してませんけどぉ?」
「明日いっぱいまで警護のシフトが入ってるからね。仕事をしないと裏梅に怒られる」
夏油がにこりと微笑む。
「うっざ~~!オマエには飯奢んないよ!」
「構わないよ」
この二人のやりとりを、ずっと不思議な気持ちで恵は見ていた。お互いをよく知っているようだが、仲が良いのか悪いのか分からない。五条は子供が拗ねたような絡み方をして、夏油は少し困ったような顔してそれを甘受している。一体どんな因縁があるんだろうか。
五条らと連れ立ってカフェを出たときにはすっかり夜が深まっていた。最後に宿儺と触れ合ってから丸一日ほど経っている。それほどの時間を離れて過ごすのは、共に暮らし始めてから初めてのことだった。そのことに違和感を感じるくらいには、あの男の気配がそばに在ることに慣れきってしまっているようだ。今夜は邸に戻ることができなくなってしまったのは、かえってよかったのかもしれない。あの大きな巣の中に陣取る主がいないのだから、きっとどの部屋もがらんとして、寄る辺がなかったことだろう。恵にはまだ、あの邸を我が家とみなせていないということにふと気付かされた。――とりとめもないことを考えてしまうのは、きっと腹が空いているせいだ。五条には責任持って高い飯を奢ってもらおう。
宿儺が恵に甚爾のことを黙っていたのは、忠犬よろしく帰りを待っているだろう恵に、サプライズを仕掛けて驚く顔を見たいという魂胆に違いない。ならばその目論見を達する前に、あらぬ場所で恵が先回りをして姿を見せたら、アイツはどんな顔をしてくれるだろうか。驚くか悔しがるか拗ねてしまうか。いつも泰然としている宿儺の隙に噛み付いてやる機会がくることを、恵は期待することにした。