「或る修道女の告白」(2023.05)

宿×伏ですが宿×津も大いに含まれます。
津美紀視点/たぶんメリバ/パロ時空(時代や国籍はお好きなイメージで)
 ――窓を、開けてもよろしいでしょうか。鳥の声が聞こえた気がしたもので。渡り鳥が帰ってくる季節になりましたね。私は毎年ここで燕を待ってるんです。
 はい、お話しする準備はできています。あのときの出来事は、まだ誰にも話したことがないので、うまく伝えられないかもしれませんが……。でも、今回の騒ぎで院長にはご迷惑をおかけしましたから、なんとか試みてみます。神に仕える者が魔物について語ることを、どうか今だけお許しください。
 では、彼との最初の出会いから話すのがいいでしょうか。あの日、私は仕事帰りに通りかかったカフェのオープンテラスで、弟の姿を見つけました。私の職場がある街に弟の通う大学もあったんです。母の再婚相手の子なので、義理の兄弟ではありますが、弟が大学の寮に入ってからも時折連絡を取り合うくらいには仲良くしていました。どんな子かと一言でいうなら、きれいな子でした。見た目のことだけではなくて、幼い頃から私たちを取り巻く不平等な世の中にずっと静かに怒っていて、それがかえって近寄りがたい雰囲気だという人もいました。でもそれはあの子の誠実さの表れなのです。
 弟の座っていたテーブルにはもう一人いました。赤毛の男の人でした。私より背の高い弟を陰に隠せそうなほど大きな体をしていました。私が弟に声をかけると、彼も私のほうを見ました。――それだけで、私は一瞬怯んでしまいました。何だか、ネコ科の大型獣に睨まれたような錯覚がして……彼はただ目線を動かしただけなのに。油断できないような気迫を全身にまとっている人だと感じました。けれど、そこであわてて背を向けるのは失礼だと思い直して、きちんとあいさつをしました。弟のほうは平然として、彼を大学の客員教授だと紹介しました。落ち着いてよく見れば、整った身なりをしていて、野性的な体つきでありながら知的な雰囲気がありました。第一印象で怖がってしまったのを恥じ、弟が世話になっているならお礼を言おうと思って同席を願い出ました。彼は無表情のままでしたが、弟は少し困ったような顔をしました。私はそれを、いつもの弟のそっけない態度の一種だと解釈しました。弟はいつも私の前では見栄を張ってましたから、教授に厳しく採点される学生としての顔を私に見られたくないのだと。……今にして思えば、その見方は間違っていたようですが……そのときの私はあえて積極的に席について、精一杯愛想よく振る舞いました。姉として今後とも弟をどうぞよろしくお願いします、もし反抗的な態度を取っていたらごめんなさい、苦労して育ったので少しひねくれているんです、と。本心が半分、無愛想な弟を少しだけ困らせてやろうという悪戯心半分で、年上ぶってそう言いました。実際はひとつしか歳は離れていないんですけど。案の定、弟は黙ったままちょっと恨みがましい目を向けてきました。その拗ねた顔は、反抗期真っ盛りだったローティーンの頃に戻ったようで、久しぶりに弟がかわいく思えて、私はつい笑みがこぼれて、それを見て弟が仕方ないと言いたげにため息をついて――お互いへの信頼があるからできる、他愛ないやりとりでした。
 そのとき、不意に赤みがかった虹彩が視界に入りました。彼が目を見開いていたのです。弟のその表情を初めて見た、というような面持ちでした。弟と私を交互に見比べ、そして――にんまりと笑ったのです。そのときの私は、その笑みの意味を正確に理解できてはいませんでしたけれど……のちに振り返ってみれば、きっとこのときに、見つけられてしまったのでしょう。
 彼と再会したのは、それから一月後くらいだったでしょうか。休日の午後三時頃、私が一人暮らしをしていたアパートメントの部屋に彼が訪ねてきたのです。彼一人でした。見上げるように背が高いので、携えていたケーキの箱がまるで小人のもののように見えたことを覚えてます。突然のことで驚きましたが、弟の知り合いですから無下にもできず、コーヒーを淹れて迎えました。訪問の目的が分からず困惑したまま、前回とうって変わって妙ににこやかな彼としばし世間話をしました。彼の声は深みがあって、話す言葉も含蓄がありつつユーモアもあって、私は弟よりも聡明な人とお話しするのはそれが初めてでしたから、ケーキを一つ食べ終わる頃にはすっかり緊張を緩められていました。
 ふと話が途切れて、コーヒーのお代わりを淹れるかどうか迷っていたとき、唐突に彼が私をまっすぐ見据えて、こう言いました。
 私の弟に恋をしている、と。
 先程までの会話でほぐれていた私の心がどきりと鳴りました。……いいえ、ときめきなどではなく、どうしてか、とても恐ろしいことを聞いた気がしたのです。私が反応に困っていると彼が続けました。弟を恋人にしたい。だけれど、弟は一線を超えることを望まないという。合意がなければ誓約は成されない。成就が叶わないこの恋心が、今にも手綱をちぎらんともがいているのだ、と言っていました。私は、それがちぎれたらどうなるのかと聞きました。彼は、熱を帯びた瞳で私を見つめながら、箱に残っていた赤いベリーのタルトを手に取りました。そしてその大きな口に丸ごと放りこみました。それを噛み砕く音が、どれほど不吉に私の耳に響いたか……とても言葉では言い表せません。その破壊の響きは瞬時に私を子どもの頃の自分に引き戻しました。
 あの頃の私たちは、古くて崩れそうな公営住宅で暮らしていました。外壁がひびだらけ隙間だらけですから、そこかしこに鳥が巣をつくっていたんです。うちのベランダの片隅には燕の巣がありました。私と弟はよくその燕の家族の世話をしました。鳥が食べるものを調べて与えたり、卵や雛を狙う天敵からかばったりしました。カラスだとか蛇だとか、野生生物と相対するのは怖かったですが、子どもながらに勇気を出して彼らを追い払った経験は、私にとって大事な記憶です。私たちの親は、巣に何度も餌を運んでくる優しい親鳥たちとは正反対でした。あの燕たちの守護者になることは、私たちのみじめな生活を一時忘れさせて、自尊心を取り戻すための行為でもあったんです。この世に生まれた生命はすべて尊いものだと、信じたかった。それでも子どものすることですから、間に合わずに雛が奪われることもありました。侵入してきた野良猫が、雛のやわらかい骨を噛み砕く音が……音が……あぁ、またあんな音を聞くことになるなんて絶対に嫌です。代わりに爪で傷付けられて血を流したとしても構わないから……。
 いいえ院長、彼の告白が冗談だとか誇張であるとは決して思えませんでした。彼は本当にそれができる者だと確信できました。そのとき私がなんとか絞りだした言葉は、弟を守りたいという願いでした。彼は猫のようににやりと笑って、だが俺は飢えているのだと言いました。あの頃のように追い払おうと思っても、目の前の捕食者はとても大きくて対抗できそうもありません。お互いの視線が絡み合ったまま、私は考えていました。彼が私の部屋を訪ねてきた意味を、彼の思い人の姉にそんな告白をする意味を考えました。なけなしの勇気をかき集めて、代わりの食べ物があれば、満腹になれますか、と尋ねました。言葉にして言ったのか、目線で伝えたのかはよく覚えていません。いつの間にか彼の目は爛々と赤く輝いていて、それを見つめていた私の意識は現実感を失ってその赤い熱に浮かされたようになっていました。三時の軽食くらいにはなるだろう、と彼の声あるいは目が言いました。その程度だとしても、口にすれば飢えの焦燥感はまぎれるでしょう、少なくとも子どもの頃の私はそうでしたから。異様な状況のさなか、私が恐怖を圧し殺せたのは、ひとえに大事な弟を守るという一心からでした。せめて私は守護者としての誇りを保つために、涙を抑えて背筋を伸ばしてから、彼に頷きました。
 その後のことは……詳細は申し上げられません。やはりというか、彼の本当の姿は人間ではありませんでした。最初に〈痕〉をつけられたのもこのときです。彼が欲を満たして部屋を出ていくとき、悲鳴を堪えたところが好ましいと私に言いました。私は体が痺れて見送りもできない有り様でしたが、それを聞いて少し安堵できました。
 それから、彼は月に一、二度私の部屋を訪れました。毎回何かしらの美味しい食べ物を手土産にして来て、私はコーヒーを淹れて、テーブルを囲んでお話をしました。話題はほとんどすべて弟のことでした。私は弟が大学でどう過ごしているかを知ることができました。代わりに、数年前のしょっちゅうケンカをして血の気の多かった頃の弟の話を私がすると、彼はとても嬉しそうに耳を傾けました。そうしていると、いつのまにか彼の目が四つに増えていて、その赤い光がどんどん熱くなってきて、テーブルの上の食べ物をことごとく食べ尽くしたら、次は私の番だと四つの腕が伸びてきて……まるで儀式のように毎回同じ繰り返しでした。
 彼の正体が魔物だと知っていながら、なぜ茶飲み話が続けられたのかと、疑問にお思いでしょうか。それはきっと、弟のことが好きだという彼の想いが本物であると感じとっていたからだと思います。私も弟が好きでしたから分かるのです、もちろん彼とは意味合いが違いますけど。それが、私が彼に選ばれた理由の一つでもあるでしょう。話を理解できる相手じゃないと、会話をしていて張り合いがないというものでしょう?彼はそんな私に、片想いの恋の同情を誘うようなそぶりを会話の端々にみせていましたが、その実そんなものは求めていなかったと思います。だって彼は強者なのですから。それを察していて尚、私は彼に同情していたのかもしれません。映画に出てくる怪物を観ていると、哀しくなることはありませんか?蹂躙することでしかもてあました熱を逃がすことができない、怪物はそういう寂しい存在なのだと、当時は漠然とした理解でしたが、すべてを知った今でははっきりとそう考えます。
 弟とは、あまり顔を合わせないようにしていました。もし弟に会いにいったら、そこにどこからともなく彼が現れるような気がして、そうなったら私はどんな顔をして接したらいいのか分からなかったからです。なので電話をすることで弟の安否を確認していました。弟はいつものぶっきらぼうな態度でしたが必ず電話には出てくれて、私は束の間安心することができました。でも一度だけ、安心とはいえない会話をしたときがありました。その日私は、彼のことをどう思っているのかそれとなく聞いてみました。弟は固い声で、アイツには関わらないほうがいいと答えました。とても悪い奴だから、二度と近づかないほうがいい、と。その言葉に私は引っかかりを覚えました。なにか、奇妙な親密さを感じたのです。まるでその悪が何なのかよく思い知っているというような……。でも深く追求することは、やぶ蛇になりそうでできませんでした。私と彼の密会のことは絶対に弟に知られるわけにはいきませんから。せめて、貴方は大丈夫なのかと尋ねました。弟は、一線を超えることはないと言いました。うやむやに電話を終えたあとも消えない不安を、私は圧し殺しました。弟は、大学の奨学金を得られるくらい優秀で、つつがなく卒業すれば私より何倍も豊かな未来が待っているはずで……いえそうでなくても、ささやかでも平穏でいられる人生を過ごしてほしい、だから決して魔物に食べられてはいけない、私はその一心で精神を保っていました。なので、その不安は気のせいだと思い込むしかなかったのです。
 えぇ、ご想像の通り、破局はあっけなく訪れました。彼と会うようになって半年ほど過ぎた頃でしょうか。彼が私の部屋を出て間もなく、私は窓辺に立ちました。彼が来ているあいだに降っていた雨が止んだのか確認するためでした。窓から顔を出すと雨は上がっていて、眼下では彼が路を去っていく背中が見えました。何気なく、その路の反対側に目を向けると、そこに弟が立っていました。まっすぐ私を見上げていたので、すぐに目が合いました。そのときの私はかろうじて服は着ていましたが、髪は下ろしたままで櫛も通していませんでした。……それだけで、弟はすべて察したようでした。氷のようになった目をゆっくりと、向こうに消えていく彼の後ろ姿に移して、その後を追うように歩いていってしまいました。私もあわてて追いかけようとしましたが、まだ体が余韻で震えていたためできませんでした。
 それから……弟のもとへ行くべきか、何て説明しようかと悩んでいるうちに日が暮れて、戸を叩く者がありました。開けると弟が立っていました。見たことのない怖い顔をしていました。招き入れて明かりの下でよく見ると、ジャケットの下のシャツが濡れていました。返り血でした。驚いた私は思わず、彼を殺したのかと聞きました。弟は首を振って、あれくらいで奴は死なない、と言いました。弟も、彼の正体をすでに知っていたことが分かりました。――そしてその瞬間私は、稲妻のような直感を得て、考えるより先に弟の首もとに手を伸ばしました。弟はとっさに避けようとしましたがそれより一瞬早く、私は見つけてしまいました。そのシャツの襟の下にある〈痕〉を。それは……私が月に数回つけられていたものよりも、ずっと濃い赤色をしていました。私はしばらく動けず、言葉も出ず、気がつくとぼたぼたと涙を流していました。あの不安が正しかったことを悟りました。弟はくずおれるように床に膝をついて、守れなくて済まない、あれを御していると思っていた俺が馬鹿だった、と言いました。いいえ、馬鹿だったのは私だと言いたかったけれど、涙で声が出ず、弟の肩を抱くことしかできませんでした。久しぶりに間近でみた弟の頬には涙の跡があって、こんな哀しい思いをさせるつもりではなかったのにと悔やみました。私は何とか涙を堪えて、今すぐ逃げましょうと言いました。けれど、弟は悲壮な目をして否と答えました。彼と誓約を交わした、と言っていました。人間のままでは、アイツに報いを受けさせることができない、だから俺は境界を超えることにした、と。私は意味が分からず戸惑いましたが、それでもそこに別れの気配を俄に感じ取りました。本能的に弟の肩を強く抱き込もうとしましたが、それを制して弟は立ち上がりました。その顔には決意の色がありありと見て取れました。アイツのことも、俺のこともすべて忘れて、平穏に生きてほしいと、弟は私に告げました。それが弟の残した最後の言葉でした。そのまま立ち去ろうとする弟を、今度こそ私は追いました。部屋を飛び出して、アパートメントの表に出たときには、すでに人影はなくなっていました。代わりに、沈んだ陽の名残でかろうじて見えた路の向こうに、大きな黒い犬が走り去る姿を見ました。それもやがて見えなくなって、私のたったひとりの弟は、向こう側に行って二度と帰らないことを思い知りました。
 彼は、私に嘘を吐いていたのでしょうか。いいえ、それは違うと思います。彼らが言っていた、一線を超えるというその本当の意味、それは私が想定していたものではなく、人と魔の境界線のことを指していたのです。その私の錯誤を、そして私自身を利用して、彼は弟を自分と同類に堕とそうとしたのです。それを理解したときにはもう遅く、分かたれた世界は元には戻りません。こちら側に残された私はただ、嘆くことしかできません。
 そうして、弟も彼も私のもとから消えました。でも私の心からは消えていません。このまま日常に戻って、仕事をして、いずれ結婚して家庭をつくって、すべて忘れたふりをして暮らすことは可能でしたが、私にそんな選択が取れるはずもありません。すぐに私は身辺を整理して、この修道院の門を叩きました。この記憶も、犯した罪も、死ぬまで背負って生きるために。ですから、ここまで長々とお話したことは告白ではありますが、告解ではありません。神に許して頂くつもりはないのです。日々お務めやお祈りをしながら、考えない日はありません、彼は恋を成就できたのか、弟は彼に報復できたのか……。この静かな場所は、哀しみの心をあやし続けるのにとてもいい環境だと思います。
 ――何だか、話がそれてしまいましたね。ですから、そう、最近シスターたちが噂している、私に悪魔の印があるという疑惑はうそではないのです。ですがお話した通り、魔物は私のもとを去りました。〈痕〉も今ではすっかり薄くなって、いずれ跡形もなく消えるでしょう。ですから何も心配はないということを、院長にお伝えしたかったのです。
 あぁ、見て下さい。燕たちがやってきました。厨房で分けて頂いた穀物をそこに置いておいたんです。……ねぇおまえたち、食べ物を分けてあげる代わりに、もし私の弟を見かけたら伝えてね。私は今ここで平穏に生きているから、何も憂うことはないと。
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宿×(伏+津)の学士論文書けました。ご査収下さい。
原作の津美紀の情報少ないからだいたい捏造。
叙述形式?で書いたの初めてなのでうまく書けたか分からない。