宿伏のダイナミック大陸横断旅行with巻き込まれ虎杖
原作軸未来if(色々ご都合設定)/救いが無いかもしれない/原作程度の宿伏描写/虎杖視点
「Sukufushi Foodie Vacation Month」(2021年度)参加作品です。
お題→Day5「サマルカンド」Day6「アイスキャンディー」Day8「プロフ」「麺類」Day25「中国」Day26「上海」
もうすぐやってくるだろう暑く乾いた夏を予感させるような、正午を超えても白々とした日差しが開け放ったままの正面扉から差し込んでいた。虎杖と伏黒が一泊した、バックパッカー向けのこの安宿は、ここの土地の伝統であろう砂色の煉瓦造りの古い建物で埃っぽかった。それでもインターネットから宿泊予約ができたし、今虎杖が座っているロビーにはちゃんとWi-Fiが飛んでいる。そしてスマホの通話アプリを立ち上げれば遠く離れた日本の友人とリアルタイムに会話することもできた。
『――とりあえずまだ無事なのね。で、今どこにいるのよ?』
「えーと、伏黒がサマルカンドだって言ってた。」
『サマルカンド!』
呆れたようなうめき声がスピーカーからこぼれた。のけぞって渋面をつくる釘崎の姿がありありと目に浮かぶようだ。
『前に連絡よこしたときはウルムチだったじゃないの、どんだけ大移動すんのよ!地球一周でもする気なの!?』
「すげぇ釘崎。地名聞いただけでどこか分かんの。」
『呑気してんな!こちとらアンタらが失踪してからずっと世界地図とにらめっこしてんの!』
「ごめんて……。」
『その調子じゃ、あのムッツリの次の目的地がどこかも聞き出せてないんでしょうね。』
虎杖はそっと振り返って、フロントマンと話している伏黒の背中を見た。おそらくこれから使う交通手段について検討しているのだろう。だけど虎杖がそこに参加しようとすると牽制されてしまい近づけなかった。だからこうしてこっそり釘崎と連絡を取ることもできるのだが。
とはいえ、虎杖が高専の仲間と連絡を取ることは伏黒の想定内だろう。もともと虎杖自身が所持していたスマホは、日本を出るときの船上であっという間に伏黒の影に飲み込まれ、返してくれと訴えたら、代わりに上海の怪しげな市場で買った中古端末を渡された。ネットには繋げられるがGPSはついていない。虎杖が通話やメッセージだけで伝えられる情報だけでは、追手もそうそうたどり着けまいという計算なのだろう。くやしいがその通りである。
床に落としていた視線を正面のガラス窓に向けると、そこに反射して映った自分の顔、片方の頬骨の上に、喜色を浮かべた紅い眼がひとつぎょろりと浮かんでいるのを見て、ざわりと胸がさざめいた。
『アンタも真面目にやんなさいよ。次の新月までもうそんなに猶予がないわよ。』
虎杖が伏黒に半ば誘拐されるように大陸へ連れ出されてから、――というよりは、伏黒と宿儺の謀略の道連れとして旅を始めてから、三ヶ月近く経とうとしている。
あの日、虎杖が伏黒に呼び出されたのは、死滅回遊の平定を辛くも成し遂げてからしばらく経った頃だった。
泥沼の中でもがくような戦いを経て、日本各地に出現したコロニーは全て潰し、”彼岸”の到来を阻止することはできた。だが、渋谷事変によって壊滅した東京はまだ復興の目処が立たず、羂索の仕掛けによって呪力を賦活させられたたくさんの元泳者たちをどう扱うべきか、呪霊の存在が非術師たちのあいだに広く知られてしまったことに対しどう立ち回るべきか、呪術界は考えあぐねていた。片付けないといけないことは山積みだが、それでも目下最大の危機を回避することができたという安堵があり、ほんの少しだけ、気の緩みがあったのかもしれない。
あのハロウィンの夜から息継ぎする間もなく泳ぎ続けた戦いのなかで失ったものは数え切れないが、代償に勝ち得た力もあった。死闘の最中で命を落としかけながらも、伏黒がその呪力を覚醒させ、十種影法術における最後にして最強の式神、魔虚羅を調伏することに成功したのだ。もとより優秀な相伝術式のポテンシャルを完全に開放することができた伏黒は、長い呪術史のなかでも類を見ない存在となった。上層部の一派から彼を特級術師として認定すべきだろうという声があがり、それに対して伏黒は、獄門疆から開放することができた五条先生の名誉回復と、虎杖の死刑の猶予を条件として、特級の認定を受け入れると言った。今後は五条先生や乙骨先輩とともに、内側から腐りガタガタになってしまった呪術界の立て直しに貢献することを、生き残った呪術師みなが期待していた。虎杖も、きっと伏黒は面倒くさがり文句を言いつつも、善人が平等に幸せを享受できる社会をつくるために尽力するだろうと、そう思っていた。
そのように一欠片も伏黒を疑っていなかった虎杖は、「宿儺のことで大事な話がある。」と言われれば取るものもとりあえず呼び出しに応じた。(伏黒の指示があったから私服に着替えるのは忘れなかった。)伏黒と宿儺の距離を近づけることに一抹の不安はあったが、回遊平定のあいだ宿儺はずっと大人しかったし、今や伏黒は事実上の特級術師なわけで、宿儺とて簡単に手出しはできないだろうと考えた。
伏黒にうながされるままに電車に乗り、新幹線に乗り、神戸に到着した。なぜこんなところまで来たのか、伏黒のことであるから何か深い考えがあるのだろう。西日本にも回遊による爪痕は残っているが、関東に比べればそれほど深刻ではなく、目の前のフェリー乗り場も通常通り営業しているようだった。
「今から上海行きの船に乗る。」
そう事も無げに言って伏黒は乗り場に侵入した。はて、と虎杖は立ち止まる。こんな時に、伏黒はなぜ海外へ行こうとしているのか。そもそもパスポートなど持ってない。何だか事態が尋常ではない方向へ行っている気がする。
混乱している虎杖をよそに伏黒は普通のサラリーマンっぽい男性に近づき、二言三言交わしたあと、虎杖の腕をとっておもむろに男性の影にどぷりと沈み込んだ。影の中は、暗黒の海のようだった。虎杖は無力なクラゲのように漂うほかなく、掴まれた腕の感触だけが寄る辺だった。時間の感覚が鈍るほどの暗闇から不意に光のなかに浮かび上がると、そこはもう船の上で、二泊三日をそこで過ごした。(なぜか客室が用意されていた。)これはどういうことなのか問いただしても伏黒は「着いたら教える。」としか言わなかった。
上海の港へ降りるときは、またあの男性の影を借りて秘密裏に入国した。その後、伏黒から厚い封筒を受け取った普通のサラリーマンっぽい男性は雑踏のなかへ去っていき、二度と会うことはなかった。虎杖は自分の頬に、宿儺の眼と口が浮かび上がったのを肌で感じる。
「首尾は上々だな、伏黒恵。」
そうしてやっと虎杖は、伏黒と宿儺の密通を悟ることができた。
そこからの旅路は、虎杖の想像をはるかに超えてムチャクチャだった。日本で呪霊や呪詛師との戦いに明け暮れた日々だって心身ともにしんどかったが、今度は不法入国した犯罪者として、しかも最近大量虐殺を犯したばかりの特級呪物を内に宿したまま大陸を渡ることを余儀なくされたのだ。ことの重大さを一番わかっているはずの伏黒はしかし、今まで見せたこともないアグレッシブさで虎杖を縦横無尽に引っ張り回した。
大都市の上海を出た伏黒は、まず鉄道に乗ってゆるやかに南下し、雲南の山間地帯へ至った。そこは山脈を超えれば東南アジアに通じる場所で、湿り気を帯びた森林が雄大だった。しかし数日の滞在ののちに進路を一転して北上し、現地のバスに乗ったり、それがなければ輸送トラックをヒッチハイクしたり、夜になれば宿を借り、それがなければ野宿をし、かなり強引に北部まで出て敦煌に着いた。そこはまさしく、虎杖がイメージするシルクロードそのものといったオアシス都市で、広大な砂漠に圧倒された。しかしそこも長くは滞在せずに西へ向かった。長距離バスでたどり着いたウルムチを経由してさらに西へ、危険を犯しつつも国境を超えて中央アジアに突入した。山岳地帯にあるという地雷原を避けながら、ようやくタシュケントに着いた後は、現代的な高速鉄道に乗ることができてひと心地着いたが、すぐにサマルカンドで下車して、今に至る、というわけだった。
この三ヶ月の内訳はほとんど移動時間であったと言っていい。そしてそれは伏黒の影の術式を活用……いや濫用して強行されたものだった。旅に必要な荷物はすべて影の中にしまってあり、食料や水に困ることはなかった。そして警察に身分証を求められそうなときや国境を超えるとき、その他都合が悪そうな状況に至ったときは伏黒は虎杖とともに影に潜ってやり過ごした。そのあいだ虎杖はそれなりに焦燥感や罪悪感を抱いて息を潜めていたが、伏黒はそのデフォルトの無表情を差し引いても至極冷静で、肝が座っていた。特級にもなると心臓に毛が生えたりするのだろうか。そんな虎杖でも山中の荒れた道をガタガタと揺れながら走る、すし詰めの乗り合いバスに乗ったときは、これずっと影のなかにいたほうがいいのでは?という図々しい思いがよぎったが、あるとき伏黒がつぶやいた「長時間潜ると、虎杖が発狂するかもしれないから困る。」という言葉を思い出してぐっとこらえた。
とはいえ、これくらいの苦労であれば、もともと頑丈な身体を持っている虎杖には大した負担ではない。不法入国であることを除けば、異国の風景や食事や交流を体感することができ、ハプニングが起きても二人で力を合わせて乗り越えればいい思い出になり、刺激的で面白い道行きであると言えなくもない。だが、虎杖たちは呪術師であり、当然ながらこれはただの観光旅行などではない。――それは、帰り道などない、決戦のための遠征であったのだ。
最初に虎杖が意識を失ったのは、月のない夜、雲南のひとけのない山奥でだった。時間にしておよそ一分間の自失から目覚めてみれば、まるで大規模な天災でも起きたかのように、周囲の山と森が消失して地形が変わっていた。満天の星空がよく見える。かたわらには、気を失う前と同じように伏黒が立っていた。
「すまない虎杖。決め手に欠けた。再チャレンジだな。」
そう言った伏黒は微笑んでいたが、体中が泥にまみれてぼろぼろだった。改めて見ると虎杖の体も似たような有様だった。濡れた土のむせ返るような匂いに混じって、血の臭いもした。何が起こったのか、まるで覚えていない。
虎杖は以前にも、五条先生が発動させた術式が、高専の森を地層が見えるまでえぐった光景を見たことがある。このとき目の前にあった惨状もアレと似ていて、何倍も規模が大きかった。
「でもこれでわかったな。俺が負傷しても反転術式をかければギリギリ縛りには抵触しないようだ。」
このとき初めて虎杖は伏黒が反転術式を使えるようになっていることを知った。呪力を覚醒させたときに自然と身に着けたのか、それとも――。虎杖のなかにいる存在が口を開いて伏黒に応えた。
「それは俺に有利な発見だな。死なん程度に破壊されるということは、やりようによっては死ぬよりはるかに辛いことだぞ、伏黒恵。」
「俺にばっか有利な条件の賭けだったからな。これでちょっとはフェアになっただろ。」
「ケヒッ、大それたことを言うようになったな。」
どこか楽しげに会話する彼らの言うことは理解できなかったが、伏黒と宿儺のあいだにずいぶん前から密かなやり取りがあり、そしてそれは宿儺による一方的なものではなく、伏黒からも積極的に働きかけていることを感じ取れた。
呆然としている虎杖に、伏黒はゆっくりと告げた。
「虎杖、オマエから宿儺を分離する方法は、ほんとうはあるんだ。」
「……え?」
「でもそれにはかなり難しい手順がある。詳しくは言えないが、特別な時と場所でしか実行できないし、幽体離脱みたいなもんだからすぐに器に戻っちまう。でも、その間隙を狙えば宿儺を祓える可能性はゼロじゃない。それがかなえばオマエを自由にできる。」
「……まじで?」
「俺も半信半疑だったが、これでやっと確信した。ここまで来た甲斐があったな。」
伏黒は不敵に笑んだ。
「俺はこの旅に全てを賭ける。アンタの釣り餌に全力で食いついてやるよ、宿儺。」
二人で山を降りたあと、宿で汚れを落としてすぐ伏黒は倒れ込むように眠りについて、丸一日目覚めなかった。そのあいだに、虎杖は高専の仲間に連絡をとって、これまでに起きたこと、伏黒から聞いたことを全て包み隠さず話した。この夜から、なんとしても伏黒を説得して無事に日本に連れ帰ることが虎杖の旅の目的になった。
釘崎の話では、伏黒と宿儺の戦闘跡地には調査班を派遣し、更に現地の関係者にも協力を要請して捜索にあたっているらしい。だが、日本の呪術師は事変や回遊の後始末で手一杯の状態で、海外の呪術師は数が多くない。いかんせん人手が足りない。
『闇雲に追いかけるんじゃ駄目なのよ。勘付かれて影の中に潜伏されたら、五条先生だって手出ししようがない。先回りして網を張って確実に捕まえるしかない。そのためには、伏黒の移動経路の法則を見つけなきゃならない。』
自分の考えをまとめるように釘崎は言葉を続ける。
『特別な時と場所があるってアイツは言ったのよね。前回の戦闘も前々回も新月の夜だった。あとは場所の共通点を見つけなきゃ。』
「うーん。広くて何にもない場所だなってことしか……」
伏黒と宿儺の二度目の戦闘は、敦煌の郊外に広がる、何百年も放置されていそうな岩場の一隅だった。呪いの気配はなかったと思うが、それは虎杖の感度の問題かもしれない。二人の戦いは今回もまた、なぜか一分間だけで打ち切られたが、それでも特級同士の呪力がぶつかった跡地には爆心地のような巨大なクレーターが残っていた。何十年か後には新しくオアシスができているかもしれない。
『ここはあの外道の立場になって考えてみるべきね。』
「コイツの立場ぁ?」
思わず剣呑な声が出た。頬に浮かんでいた目はもう沈み込んでいるが、やりとりは聞こえているだろう。
『あの天上天下唯我独尊が、伏黒に祓われてやるためだけに大陸くんだりまで行くわけないでしょ。その特別な時と場所で起きることは、アレの目的にとっても何かメリットがあるはずよ。それが完全復活なのか世界征服なのかは知らないけど。その観点で調査してみれば次の目的地の目星がつくかも。』
渋谷事変のさなか、宿儺は伏黒を何かの目的に利用しようとするような言葉を言っていた。あの分離の方法とやらも、宿儺自身が伏黒に教えたに違いない。伏黒が必要だから、餌をちらつかせてこんな所までおびき出した。
きっとその思惑も伏黒は重々承知の上だ。伏黒は”賭け”だと言っていた。二人が交わしたであろう縛りの全貌を伏黒は話したわけではないが、縛りとは原則として、互いに提示する条件に釣り合いが取れていなければならない。伏黒が宿儺の祓除の挑戦権を得ること。宿儺が伏黒の力を得て目的を遂げること。宿儺から見て、この二つは天秤に乗るということなのだろうか。
そんな重大な誓約をいつの間に交わしていたのか。器である虎杖が全く気づけなかったということは、宿儺の生得領域のなかで行われたのかもしれない。以前虎杖がそこへ連れ込まれたとき、頭蓋を真っ二つにされたことを思い出して身震いする。伏黒も悲惨な目に遭わされたのだとしたら許せない。けれども、この旅における伏黒の宿儺への態度には、恐れや忌避のようなものは感じ取れなかった。
『特別な条件が揃う地点なんて、そう何箇所も残ってないはずよ。のんびりはしてられない。アイツらが勝手に決着つけちゃう前に、私たちが待ち伏せして捕まえるか、アンタがあのバカ説得して愚行を止めるかよ。気張ってやれ!』
これまでに何度も浴びた釘崎の叱責を再び耳に撃ち込まれつつ、虎杖はスマホの画面を閉じた。
フロントで話を終えた伏黒がロビーの虎杖のもとへやってきて、どさりとアラベスク模様のソファに座る。
「疲れた……英語が使えただけマシだったが。」
内陸へ入り込めば入り込むほど英語は通じなくなっていくので、翻訳アプリなどを駆使してしのいできたが、この外国人旅行者向けの宿は一応例外のようだった。
伏黒は難しい顔をして地図を眺める。
「近くの村まで行けるバスはある、けどけっこう歩くことになるな。」
虎杖が声をかける前に、宿儺が声を発した。
「車を買えばいい。敦煌のときに比べればましな道だ。」
それを聞いて、伏黒は思案するように視線を上に上げた。
「車か……ヒッチハイクはめちゃくちゃ効率悪かったからな……でも俺運転できねぇぞ。」
「オマエならすぐ覚えられるだろう。習うより慣れろだ。」
「まぁ、あれば便利だよな。」
この、伏黒と宿儺が自然体で会話する光景を、旅のあいだに何度見たかわからない。呪いの王と対峙している緊張感を忘れてしまいそうになるような、日常的で気安い応酬。けど、その会話に割り込んでみるのは今回が初めてだった。
「あのさ、俺運転できる、かも。」
きょとんとした顔をして、伏黒が虎杖と目線を合わせた。まるで、虎杖がここにいることに今初めて気づいたかのようだ、と思ってしまうのは穿ち過ぎだろうか。
最初のひと月くらいのあいだは、伏黒がこんな思い切ったことをしでかしたのは自分のせいではなかろうかと、虎杖は思い悩んでいた。だが、先程から目の当たりにしているような伏黒の言動を見せつけられるうちに、虎杖の悩みは的外れなのではと徐々に考えるようになってきた。
「えーと、前にじいちゃんから教えてもらったことあるから、まぁこっちは左ハンドルみたいだし勝手が違うかもだけど……」
言葉を接ぎながら、ある考えが虎杖の脳裏に浮かんできた。これが上手くいけば釘崎たちの役に立てるかもしれない。
「日本と違って道が広いし真っ直ぐだし、何とかなるっしょ!」
虎杖は伏黒にニッと笑ってみせる。
「でも、そんな金あんの?もしかして伏黒けっこう貯金あったり?」
ここまでの旅程は倹約的なものだったが、とはいえ伏黒の影からはいつでもまとまった金額の紙幣が出てきた。それもあるが、と伏黒は答える。
「五条先生からパクったカードでありったけキャッシングして、全部ドルに変えておいた。」
「……ん??」
虎杖は人生で初めて自分の聴覚を疑った。今なんて?
「普段遣いのやつじゃねぇから、下手したらまだ気づいてないかもしれねぇな。まぁ、暗証番号教えるほうが悪い。」
なんで?と困惑したが、「恵~~面倒だから代わりにここの会計済ませといてぇ~~」といって財布を押し付ける五条先生の姿はありありとイメージできた。いや、それでも無断使用するほうが絶対に悪いのだが。
「いや、だめでしょ伏黒さん……」
呪いの声が含み笑いをする。
「その程度のことで目くじらたてるようなら、ヤツは存外料簡の狭い男だということだな。」
「あの人なら大して気にしねぇよ。」
悪びれる様子が欠片もない涼しい顔に虎杖が二の句が継げずにいると、伏黒は地図を畳んで立ち上がった。
「腹減ったな。とりあえず飯を食いに行こう。」
晴れた青空は高く、雲ひとつなく、太陽の光が何にも遮られることなく降り注ぐ。空気は乾いていて気持ちがいいが、今日は風が止んでいるためにじわりと暑さを感じた。二人ともTシャツ姿でバザールを目指して歩いていると、存在感のある大きな建物に出会った。図形を組み合わせたようなシンプルなりんかくの巨大な建造物の壁面には、これまた無数の図形を複雑に組み合わせた文様がびっしりと描かれている。でも青を基調としたその色彩にはけばけばしさを感じない。砂漠の国といえばやっぱこういうやつだよな、という知識しかない虎杖に、これはビビハニム・モスクだと伏黒が教えてくれた。14世紀に建造されたが、急拵えで造られたため、のちに地震で倒壊してしまい、現在も再建途中なのだという。その話を聞いて、今このときも、壊れたものを少しずつ立て直そうと奮闘している日本の仲間たちのことを思い出して、胸に迫るものがあった。
そのモスクのすぐそばにあるシヨブ・バザールの、これまた巨大なアーチが横に三つ並んだ門をくぐると、そこはすでに地元の人々で埋め尽くされ、賑わっていた。中東系の顔の人もいればアジア系の顔の人もいて多国籍感がある。屋根付きの巨大市場のなかを冷やかしながら進んでいく。山のように積まれたナンや、バスケットに無造作に盛られたナッツやドライフルーツ、巣から取り出したばかりの蜂蜜、香辛料、野菜だけでなく食器や衣類などの日用品や家電まで売っている。それでもアジアの市場と違って通路が広いから開放感があった。その雰囲気を堪能してから屋内に入り、チャイハナと呼ばれる食堂に入って昼食をとった。
そこにはバザールの喧騒を見渡せるバルコニーがあり、透かし彫り文様の入った欄間が日光を和らげていた。ほとんど観光などしてない旅行だが、こうして現地の店に入り食事をするだけでも十分に異国情緒を感じられる。虎杖はがっつり食べられる羊肉入り炒飯のようなプロフを、伏黒はトマトベースの具沢山うどんのようなラグマンを注文した。緑茶に似たチャイをお供に味わいつつ、お互いに数口交換した。ウルムチでもラグマンが出てきたが、あっちは凝った味付けでこっちはあっさりした喉越しのように感じる。いずれにせよ、どの料理も香辛料がふんだんに利かせられた大陸の味だった。食べ終わって会計するとき、伏黒はポケットから現地通貨の紙幣の束を取り出した。それはもともと伏黒のものではなく、もちろん虎杖のものでもない。
それはタシュケントに到着したときのこと。宿を探して迷い込んだ路地裏で、たまたま強盗集団が観光客カップルを拉致しようとする現場に出くわしたので、二人で協力して叩きのめしたあと、「両替する手間が省けた」と伏黒が気絶した暴漢たちの財布から抜き取ったものである。そのあとは通報を被害者の彼らに任せてさっさとその場を立ち去った。もとより正義漢ぶるつもりはないが、虎杖らも通報対象にされてやいないだろうか、としばらくヒヤヒヤしたものだ。
食堂を出て、土産物屋を眺めているとふいに伏黒の気配を見失った。辺りを見回すと、冷えた飲料が並んだ什器のある店舗で何かを買っているようだ。購入した品を虎杖が視認する前に、伏黒が振り返って言った。
「虎杖、手出せ。」
くれるのかな、と思いつつ手のひらを上に向けて差し出したのだが、
「おい、宿儺。」
伏黒が手のひらに呼びかけると、そこにぷかりと口が浮き出た。
「なんだ。」
返答したその呪いの口に、ひやりと冷気を発するものが当てられた。一口大の西瓜の実がいくつも埋めこまれた赤い棒状の、それはアイスキャンディーだった。伏黒の手は一切の了承も躊躇もなく、それを手のひらの口腔に突き入れる。そのとき、伏黒の口角がわずかに上がっているのを虎杖は見た。
芯棒ごとアイスキャンディーは吸い込まれていき、口は閉じられた。絶句した虎杖をはじめ、全員が無言の時間がしばし流れた。
「……何だよ。驚かねぇのか。」
「氷菓子くらい知っている。」
「チッ。」
つまらねぇな、と言って伏黒は虎杖に桃の実の入ったアイスを渡し、自身はマスカットのアイスにかじりついた。虎杖は目の前で起きた出来事を解釈しかねていた。見たまんまを言えば、伏黒が宿儺にイタズラをしかけた、ということになる。悪童のような悪い笑みを浮かべてイタズラを実行し、思うような反応を得られずふてくされる。それだけのことが、虎杖にとってはとても異様な光景だった。日本にいたときは、悪ふざけをするのはもっぱら虎杖と釘崎と担任教師で、伏黒はいつもそれを諌める側だった。そんな生真面目な奴が、意表を突くような悪ふざけ、それも呪いの王を相手に。
戸惑いを消化できないが、とりあえず、さきほどアイスの先端が触れたとき、手のひらにびくりと震えた感触があったことは黙っておこうと心に誓った。虎杖のアイスは口に入れると桃のいい匂いが広がってそこそこ美味しかった。
チェックアウトを済ませた後、宿のフロントマンの紹介で、街の中心部から離れた地区にあるうらぶれた中古車販売店へ向かった。そこでほどほどのセダンを見繕い、伏黒が少し多めにドル紙幣を積むと、免許証の提示を求めることもなく店主の老人は車を売った。あまりにもスムーズに運ばれるグレーな……というか真っ黒な取引の様子をまじまじと眺めていると、伏黒が笑みを浮かべて言った。
「隣にオマエの今のツラとガタイがないと、こう上手くはいかなかったな。」
普段は意識していないが、虎杖の顔には大きな傷跡があるのだった。そんなに人相が悪くなっただろうか。傷跡は男の勲章だな、と伏黒は笑った。
走り出しは虎杖がハンドルを握り、左ハンドルの操作に慣れたころに市街を抜けた。途中で席を交代し、今は伏黒が見よう見まねの運転で、おおよそ北西の方角に向かって車を走らせている。太陽は地平線に沈み始めていた。
砂が舞う荒野をまっすぐに突き進む広い道に入ってから、虎杖は話を切り出した。
「もう日が暮れそうだけど、夜はどうすんの。」
「行けるところまで行って、車中泊だな。この先は宿なんてないだろうし。」
出発前に買ったドライフルーツをつまみながらできるだけさり気なく提案する。
「でも急ぐんだろ。交代で運転すればいんじゃね。伏黒が寝てるあいだは俺が走らせてれば時短だろ。地図にルート書いといてもらえれば、その通り走るからさ。」
運転に集中していた伏黒の視線が、ひらりと瞬いて虎杖の視線と絡んだ。
虎杖の狙いはもちろん、釘崎たちのために伏黒の目的地を聞き出すことである。これまでの道のりではずっと、伏黒が下す指示に忠実に従ってきた。未知の土地に放りこまれてそうせざるを得なかったのもあるが、味方として穏やかに接するほうが油断を誘えるからだ。この虎杖の提案だって、慣れない車の操作に気をとられている今なら、気遣いのひとつとして受け止めてもらえるかもしれない。
よしんば意図を怪しまれたとして、道行きを急ぐのは間違いないだろう。妥協する価値がないわけではない取引のはずだ。伏黒はハンドルを握ったまま黙考している。
だが虎杖の精一杯の駆け引きは、無情な呪いによって打ち砕かれた。
「問題ない。伏黒恵が休んでいるあいだは、道をどちらに曲がればいいか、俺が小僧に逐一教えてやる。その先の目的地を教える必要はない。」
虎杖はがくりと大きくため息をつき、伏黒は小さく吹き出した。虎と狼に挟まれては初めからなす術もなかったのだ。
なけなしの小細工が通用しないとなれば、もう率直な言葉を重ねるしかない。
「ーーなぁ伏黒。もう帰ろうぜ。」
夕陽を眺めながら力無く乞う。伏黒は笑みを浮かべたまま返した。
「それを聞くのはもう何度目だろうな。」
何度もすげなくあしらわれてきたやりとり。それでも虎杖は諦めるわけにはいかない。雲南では一日、敦煌では二日、伏黒は戦いのあとに昏倒していた。もう目覚めないのではないかと不安になるほどに。たった一分間のあいだに、そんなにも激しく呪力を消費するなんて、どれほど壮絶な呪い合いなのだろうか。次の目的地でまた同じことが起きて、そこから生還できる幸運にまた恵まれるかはわからないのだ。
伏黒はささやく。優しく諭すように。
「……例えば、津美紀は俺がいなくても生きていける。」
虎杖は伏黒の横顔を黙って見つめる。
「五条先生も、オマエもそう……というか、世の中のほとんどのものはそうだ。」
その横顔は微笑んでいる。
「でも、ソイツは俺がいないとダメらしい。」
そこまでいうなら、付き合ってやってもいいかってな、と冗談めかして笑う。
「全てが終わったら、釘崎に迎えに来てもらえよ。オマエのことは絶対に助けてやる。ついでに世界も救ってやる。これが俺の命の正しい使い方だ。」
絶対、などという言葉は、五条先生が好んで多用することはあっても、伏黒の口から出てくるのは稀なことだ。旅のあいだ、この友人はずっと、らしくないことばかりしている。虎杖たちよりもずっと慎重で秩序を重んじていた奴が、大陸に渡ってからは違法な手段を次々用いることをためらわない。自分が伏黒のことを危なっかしいと思う日が来るなんて、虎杖は全く予期していなかった。
なかでも最もらしくないことといえば、この旅路で伏黒は、今までにないほどよく笑っている。日本では彼の笑顔を数えるほどしか見たことがない。なぜなら、伏黒が笑うときは、誰にも見られていないときにこっそりとやっていたからだ。まるでそれが恥ずべきことだとでもいうように。でもここでは、そんな屈託がなくなったかのように、あるいは解放されたかのように、てらいなく笑うのだ。
どちらが本当の伏黒なのかと、不毛な問いを虎杖は考える。大陸の風に当たったことで、もしくは宿儺と通じることで彼は変容してしまったのか、それとも取り繕っていたものを脱ぎ捨てたのか、わかりはしない。
それでいて虎杖は、伏黒の胸の内を少しだけ理解できる気がする。自分にとって正しい死が何かを判ったとき、迷っていた心が解き放たれたような気持ちになる。もしも今この場から伏黒を連れ帰ることに成功したとして、あのしがらみだらけのせせこましい呪術界のなかに再び組み込まれてしまっても、今のように笑ってくれるだろうか。そんなことを考えてしまうのは、不誠実だろうか。日本に残してきた者たちに対して。伏黒に対して。俺たちが積み上げた屍の山と業罪に対して。今の虎杖にはもう、正しさが何かわからない。
宿儺との呪い合いに全てを賭けることで、伏黒が自由と喜びを得ているというのであれば、虎杖にはこの友にかけるべき言葉を見つけられない。ごめん、釘崎、諦めたくはないけれど、俺にはどう説得すればいいのかわからないんだ。
大地の彼方を目指して、伏黒はアクセルを踏み続ける。己の内側にいる呪いの気配はずっと凪いでいる。虎杖だけが、未だに何の覚悟もできていない。
左前方の地平線に、少しずつ、しかし着実に赤い夕陽が溶けていく。今日という日が二度と戻らないことを知らしめるように。夜空にはやがて細い三日月が昇るだろう。次の新月まであともう少し。眠って起きて、歩いて食べて、笑って旅をする日々もまた、走り去る道路の向こうに置き捨てられ、帰らざるものとなっていく。それらを止める手だてを何ひとつ持たないことを痛感しながら、虎杖は伏黒のとなりで沈黙したまま地平の果てを見つめていた。
終
あとがき
書いた人は宿伏のつもりで書いてるけどCP要素は果てしなく低くて済まない!「悪足掻き」「善問答」を前提に読んでもらえると多少は宿伏っぽいかもしれない。
Twitterでぼそぼそと呟いていた、宿儺様渡来人であってほしい&宿伏+虎杖で「深夜特急」してほしい&ついでに伏黒くんに最強の特級術師になってほしいなど願望をつめこんだお話です。(大沢たかおは道中悪事は働いてないけど……)
このタイトルも歌謡曲が元ネタだけど、深夜特急のテーマの「積み荷のない船」もよかったかもしれない。
一番書きたかった車中のシーンのための前フリ説明部分が長くなって1万字超えちゃった…。(実際回遊の平定って何なんだろな……津美紀と野薔薇ちゃんはどうなっちゃうのかな……)
あくまで虎杖視点のお話なので、宿儺と伏黒の誓約について正確なところは分からないままです。(あんまりこまかく考えてないともいう)そして虎杖視点なので地の文もできるだけフランクにしようとしたけどあんまりならなかった気もする……。