「春の山犬」(2021.05) - 1/5

※犬が死にます!

ハッピーエンド現代パロ時空です。闘犬や賭博など倫理観の低い描写が含まれます。

宿儺の外見は受肉verでも御形verでも好きなほうでイメージしてください。

タイトルはインスパイア元の久生十蘭の短編「春の山」からもじりました。

 

 

霞始靆(かすみはじめてたなびく)

山に霞がけぶり始める二月の半ば、午前三時。犬舎をのぞいた伏黒恵は、目の前の光景に心底おどろいた。

〈犬屋〉である伏黒家の犬舎に唯一住まう犬である渾は、いつものように恵の気配を察知して目覚めており、その大きなしっぽを振った。だがその犬の腹を枕にして横たわり、寝入っているこの見知らぬ男は一体何なのか。戸を開けた姿勢のまま硬直する。

夜闇にすかして見てみれば、後ろになでつけた赤毛と、狼と見紛う体躯の渾がただの大型犬に見えるくらいに恰幅のいい体つきなのがわかる。服装は変哲もないシャツとスラックスだが、片腕に何か巻きついている、と視認したとき血の匂いがただよってきた。

混乱したまま恵が一歩近づいたとき、男の目がぱちりと開いた。

「オマエの犬か」

低く、不遜な響きの声。泥棒でもなければ、ましてや浮浪者であろうはずもない、強い光を帯びた視線。何者なのかと考えるより先に恵の口は動いた。

「渾に何をした!」

古い山犬の血を引き、人間どころか犬たちさえ身近に寄せることのない誇り高き渾が、あろうことか不審者の接近を許し枕代わりにされているなど、この目で見てもまだ信じられない。目視した限りでは、負傷した様子も拘束された様子もないが。

「むしろ、俺がこいつにしてやられたのだが。」

男は左腕をおもむろに掲げる。よく見ると、上着か何かを裂いたものを巻いていて、血で真っ赤に染まっている。発言と併せて察するに、渾が男の腕を噛んだのだ。

「忍び込んでおいて被害者ぶるな。ていうか、何でまだ生きてるんだよ。」

先刻、この犬舎を囲んでいる柵の扉を開けようとしたとき、南京錠が掛け金ごと力づくで剥がされているのを恵は発見していた。招かれざる闖入者を、かねてより血肉を引き裂くことに慣れている渾が強襲しないわけがない。渾の性質を知っている地元の者は不用意に犬舎に近づかない。つまりこの男は何も知らないよそ者だ。

何が面白いのか、男は笑い声をあげた。

「ひどい言い草だな。だがすでに、俺とこいつのあいだで雌雄を決したからな、これ以上闘う必要がない。」

それは、この男が渾を屈服させたということだろうか。無事な右手で渾の毛並みをなでる男と、それに逆らわない渾の様子を見るに、事実であるようだ。

野生の獣の本性を未だ宿している大きな山犬に襲われて、逃げるどころか迎え討って勝利したという常軌を逸したこの男もまた、獣かなにかなのだろうか。まるで夢でも見ているような状況に、恵はめまいにおそわれて戸口にすがりついた。

 

少し冷静さを取り戻した恵は、怪我の治療のために男を母屋へ案内した。狂犬病の予防はしているが、噛まれた傷口を放置して無事であるはずがなく、それに犬舎は当然ながら人間の寝床にするには寒すぎる。

伏黒家は年季の入った平屋の日本家屋で、今は恵がひとりで暮らしている。玄関をくぐれば廊下が伸び、右手に台所と風呂トイレ、左手に居間と寝室がある。畳の上に無造作に敷いたラグとソファ、ローテーブルのある居間にとりあえず男を置いておいて、恵は救急箱と着替えを探した。数年前にふらりと出ていって帰ってこない父親も筋肉質な男だった。やつの残していった服ならサイズも合うだろう。

居間に戻ると、男は部屋の隅の、書籍や教科書を収めた本棚を眺めていた。

「大学生か。」

確かに恵は大学生で、獣医学部に在籍しているが、今は休学している。質問には答えずに救急箱を開く。男の太い腕は食いちぎられてこそいないが、牙が食い込み肉が裂けている箇所が複数あった。ソファに並んで座って、乾きかけた血を拭い患部を消毒し、針と糸を取り出して縫う。

「手慣れているな。」

「きれいにはできねぇぞ。犬は縫ったことあるけど人の体は初めてだ。」

相当な裂傷を痛がる素振りも見せず、皮膚に針を突き刺しても動じない男は、興味深そうに恵の手つきを眺めながら言う。

「大昔の山犬の血を継ぐ大きな犬がいると聞いて、ひと目見たくてやってきたが、あれはそんなに物騒な犬なのか。」

男の侵入の動機を知って呆れ、少し迷ったが、恵は答えた。

「……渾は闘犬なんだ。」

ほう、と男はその赤みががった色合いの瞳を細めて恵を見た。

「このご時世にまだ残っているのか。賭けもやるのか?」

恵は男の目を見つめ返す。男の言葉に非難の色はなく、純粋な好奇心がうかがえる。明るい場所で観察すると、男の両の頬骨あたりには古い傷跡があった。負傷には慣れているようだ。

「ここの土地の伝統だ。今は廃れてるけどな。ほら、終わった。」

腕に包帯を巻き終え、ゆったりとした長袖のTシャツを渡す。男は素直に血で汚れたYシャツを脱ぎ捨てた。あらわになった上半身は引き締まった筋肉で覆われ、更にその皮膚には刺青が施されていた。黒一色のその紋様に下品さはなく、均整の取れた肉体と相まって美しさすら感じる。不意にそれを見せつけられた恵は圧倒されて息を呑んだ。彫り物を入れている人間を見たことがないわけではなかったが、この男の身体がまとう雰囲気は引力のように視線を引き寄せ、只者ではないと瞬時に理解させる。渾が彼に敵わなかったのも、少しだけ納得がいった。不本意ながら。

Tシャツを着終わったのちもあっけにとられたままの恵を見て、男はふっと鼻で笑った。恵はあわてて居住まいを正す。

「うちの犬がアンタに怪我を負わせたという点については謝罪する。だから一晩だけはここに泊まっていい。」

男はそれを聞いて片眉を上げた。

「不法侵入で通報する、ではないのか?」

「おおごとにするつもりはない。明日になったら病院にでも行け。」

「それは必要ない。」

いや、素人の手当で済ませるわけにはいかないだろう、とは思ったが、それと裏腹に恵はすこしほっとした。渾がよその人間を噛んだことがおおやけになれば、保健所に通知が行って最悪殺処分になる可能性がある。恵が育ったこの土地―――〈山間(やまあい)〉の人間たちなら見逃し許すことでも、現代の行政がからむと面倒になる。堅気ではなさそうなこの男なら、お互いにうやむやにするほうが得だと考えてくれるだろう。

もう明け方に近い時刻だが、男をソファで寝かせるために毛布を運び込み、恵は寝室に引っ込もうとしたが、なぜか男に引き止められた。闘犬の話をもっと聞かせろ、とねだられて閉口した。ちっとも寝る気がない様子だった。だが恵も一連の出来事で目が冴えて、すぐに眠れそうもない。

照明を落とした部屋には、年代物のヒーターの電熱線が発する橙色の光と、掃き出し窓から射す徐々に白み始めている天空の光が優しくただよって、旧い物語を語るのにうってつけの空間のように思えた。

どこから話せばいいだろう、と考えつつ恵がソファに座ると、どさりと重いものが腿に乗っかった。男が今度は恵の足を枕にして横たわっている。面食らったが、なぜか懐かしいような心地も感じた。それは、数ヵ月前まで伏黒家にいた、白と黒とという名の犬たちが、恵に甘えるために膝に頭を乗せてきた、あの感触と温度に似ていて、不覚にも胸が詰まった。いちいち獣を連想させる振る舞いをする男だ。一応怪我人である男の頭をはねつけることはやめて、適当に毛布をかけてやりながら、恵は話し出す。

「うちの裏手に山があるだろう。あの天辺にはお社があって、俺たち……〈山間〉の人間たちはそこに神を祀っていた。」

 

―――あるとき、どこかよその土地から赤犬の群れがやってきて、〈山間〉の人々の田畑を荒らすようになった。赤犬たちは凶暴で、作物や家畜だけでなく人間もおそった。

困り果てた人々が社の神に助けを求めると、神は半分黒く半分白い大きな山犬を産み、人々に授けた。山犬はその強いあぎとで赤犬たちを噛み殺した。

そうして救われた〈山間〉の人々に神は言った。〈山間〉を守った山犬の血統を守り継ぐこと、毎年神事を行ってこの縁起を語り継ぐこと。

 

「その神事が、つまりは闘犬賭博なんだ。」

男は不思議そうにまばたきをした。

「闘犬も賭博もケガレだろう。神が許す所業に思えんが。」

「よそは知らないが、うちはそうなんだ。」

「流血を好む神か。面白い。」

うっそりと細められた男の目が薄闇で光る。こいつもまた流血沙汰が好きそうな顔をしていた。

「黒白の大きな犬といえば、さっきのあいつがそうだな。」

「そうなんだよ。」

男の的を射た発言に、恵は思わず顔を覗き込んだ。

「渾は”先祖返り”だって皆言っているし、俺もそう思う。毛色もそうだし、なにより、今までうちが育ててきた犬たちと比べて格段にデカいし、強いんだ。〈賭場〉に出て負けたことはただの一度もない。野性味がありながら気品もあって、あの昔話は本当だったんじゃないかと思うくらいに……」

男にじっと見つめられて、恵ははっと我に返る。犬の話になると多弁になる癖がまた出てしまった。恵の家は〈犬屋〉という屋号を持ち、神から授かった山犬の血を継いでいるといわれる犬たちを保護し、繁殖させる役割を昔から担っていた。だから、生まれたときからそばにいた犬たちを恵は愛し、犬たちもまた恵を愛した。

だが、次の核心的な一言に、語りながら高まっていた熱がすっとしぼんだ。

「ここには渾しか犬はいないのか?」

その問いに、恵はすぐには答えられなかった。

犬がいない理由はいくつかあった。一つは、犬を世話し、闘犬として訓練する家伝のノウハウを受け継いでいた恵の父、甚爾が家出したことだ。彼は闘犬賭博に関わるうちに、犬ではなく賭博のほうに魅入られてしまい、「全国津々浦々の賭博を制覇する」というイカれた宣言をして出奔してしまった。携帯電話はすぐに不通になり、足取りはさっぱり分からない。恵の生母は亡くなっており、その後の再婚相手も長続きせず〈山間〉を出ていき縁遠くなっていた。ひとり残された恵には、家業の維持どころか、日々の生活で手一杯の状態だった。自分のことしか考えていない父親でも一応息子のことは覚えているのか、不定期に口座への振り込みがあったが、ここ数ヶ月は途絶えている。どこかで野垂れ死んだかもしれない。そういった喫緊の問題のために、犬たちは手放すしかなかった。

そうして恵が家業を実質的に放棄している状態を責めることなく、なあなあに周囲に受け入れられているのは、家庭の事情を知られていることだけでなく、〈山間〉のなかで闘犬賭博がすっかり廃れてしまったということもある。景気の良かった時代は、暦に戌がつく日は欠かさず〈賭場〉を開いていたという話も聞いたが、恵が物心ついた頃には、春分と秋分、夏至と冬至に開かれるのみで、長年胴元をつとめていた老人が去年亡くなってからは、それすらもできなくなってしまった。

山の上のお社も、いつの間にか管理する者がいなくなり、訪れる者もいない。〈山間〉の人々が神事をおろそかにしても、怒ってくれる神様はとうの昔に去ってしまったようだ。

「……闘犬なんて、時代遅れだからな。」

動物愛護の意識が進んだ現代で、後ろ指をさされながら続けていくメリットはもうなくなっている。伝統が失われていくさみしさはあるが、仕方のないことだと恵は受容している。

ひとつため息をつき、話は終わりだ、と恵は腰を上げようとするが、男に抵抗された。

「動くな。」

「は?」

「オマエの声は快いな。いい寝物語だった。眠くなってきたから寝る。」

戸惑う恵を置いてけぼりに、男は恵の腿に頭をあずけたまま寝入ってしまった。己の欲求に正直過ぎないだろうか。そのうえ、人に命令し言うことを聞かせることに慣れた口調。厄介が服を着て歩いているような男だ。

こっそり立ち上がろうとしたが、いつの間にか恵の服の裾をがっちりつかんでいた男の右手が強固過ぎて外せない。どんな因果でこんな人間と関わる羽目になったのだろう。何もかもどうでもよくなって、語り疲れた恵はソファの背に体重をあずけた。

 

 

恵が目を覚ますと陽はすっかり登っていた。あの迷惑な男の姿は忽然と消えていた。結局ソファで寝落ちしていた恵の体には、男に使わせていた毛布がかけられていた。あいつがやったのだろうか。まるで真人間のような情緒が彼にあったことに驚きつつ、あわてて犬舎に走った。

恵の姿を見て伏せていた頭をもたげた渾に、遅くなって済まないと詫びながら、その体を点検した。昨夜もざっと確認していたが、怪我をしたり牙が折れたりということはなさそうだ。

男に語って聞かせた通り、渾は大きく強い犬だ。だが、確実に老いに蝕まれていた。今年でついに十歳になる。通常の大型犬であれば、寿命でいつ死んでもおかしくない。だから、彼だけは手放さずに、静かに暮らせるこの場所へ留め置いた。それなのに、昨夜のあの騒動だ。今更ながら名も知らぬあの男に腹が立ってきた。傷の手当などせずにほっぽり出せばよかったのではないか。

背が黒く腹が白い毛並みを恵がわしゃわしゃと掻いてやると、渾は気持ちよさそうに目を細める。容易に人に懐かない犬だが、育て親の恵にその牙を向けることはない。指で探れば体のあちこちに、若い頃から〈賭場〉で百戦百勝してきた闘いの傷跡が残っているのがわかる。生命力にみなぎっていた渾の体は傷の治りも早かった。だが今の老体で、もしまた闘いになれば、今度は耐えられるだろうか。

恵の杞憂をよそに、今日の渾の精神状態は安定しているようだった。そのたくましい首に腕を回して抱きつけば、その重み、熱さに安堵する。大きな体に身をあずければ、子供の頃に戻ったような心持ちがした。渾を仔犬の頃から育てたのは恵ではあるが、旧い血を連綿と継いできたその山犬の瞳を覗き込むと、まるで何百年も生きてきた古老のようで、だから渾の前では恵は緊張も虚勢もなく、ただ畏敬の念をもって、ひとりのちっぽけな人間として相対していた。

できることなら、このまま穏やかな時間を過ごしながら苦痛のない死を与えてやれればいいと思う。思うが、だけれども。その先の思考を、恵はむりやり振り払った。あの冬の日の鮮烈な記憶を閉じ込める。そんな恵を見つめる渾の表情は、何を想っているか、恵には測りかねた。

 

渾の運動と食事を済ませたあと、恵はアルバイトにでかけた。

昔なじみである虎杖悠仁の家は牧場を経営しており、そこに併設されたカントリー風のレストランで恵は働かせてもらっていた。広い草原を一望できる窓の向こうでは、牛たちを追い立て戯れる二匹の犬がいた。テーブルを清掃しつつ、彼らののびのびとした姿を恵はまぶしく眺める。

〈賭場〉の胴元の老人が亡くなったのは昨年の初夏だった。そのために夏至も秋分も、恵が二十歳を迎えた冬至にも〈賭場〉は開かれなかった。渾の様子がおかしくなったことに恵が気づいたのはこの頃だった。

近づく人間を選ぶが、無駄吠えはせずいつも泰然と構えていた渾が、郵便の配達員にさえ敵意をみなぎらせ唸り声をあげるようになった。彼の息子たちである黒と白が近づくたびに吠え立てたり、噛みつこうとする仕草を見せた。危険を察知した恵は虎杖に頼み込んで黒と白を引き取ってもらい、闘犬たちがいなくなってがらんとした犬舎とそれを囲う柵のなかに渾を閉じ込めた。そして大学に休学届を出し、可能な限り渾に付き添うことを決めた。

とはいえ生活費は必要で、これまた虎杖家の厚意で、このレストランで雇ってもらえることになったのは有り難かった。ここなら移動時間が片道10分程度で済む。出勤時間ぎりぎりまで渾の様子を見ていられる。

黒と白を手放すことは苦渋の決断だった。名前の通り、片方は全身が黒く、もう片方は白い。甚爾がいなくなった頃に産まれた彼らには闘犬の躾をしてはおらず、大きさも性格も普通の大型犬と変わらず、甘えん坊で可愛かった。できることなら、ずっとそばにいてほしかった。それでもこの決断を後悔はしたくない。彼ら兄弟がこの牧場の人々にたくさん愛情を注がれていることは、こうして遠目に見ていてもわかる。またなでてやりたい気持ちもあるが、前の飼い主がしゃしゃり出るのは彼らを混乱させてしまいそうでできなかった。この職場から見守ることができるだけでも十分だ。

「よっ、伏黒じゃん。」

聞き覚えのある女性の声に振り返ると、不敵に笑った釘崎野薔薇が立っていた。

「ウェイターさん、席までエスコートしてよ。」

「どーぞ。好きなとこ座れ。」

久しぶりの再会だったが軽口をたたくところは変わってない。昼時のピークを過ぎて落ち着いた店内のカウンター席に釘崎は腰を落ち着けた。相変わらず都会的でセンスの良い服装で全身を彩り、虎杖や恵と比べて圧倒的に垢抜けている。

虎杖と釘崎、恵の三人は中学まで席を並べ、その後は釘崎と恵が〈山間〉の外の進学校に通い、やがて別々の大学に進学した。田舎が嫌いで都会が好きだと公言している釘崎は大学の近くで一人暮らしをし、滅多に〈山間〉へ帰ってこない。(とはいえ、この町にも鉄道は通っているし、駅前にはショッピングモールもある。言うほど田舎ではないのだが。)突然の帰省の理由を聞けば、実家の近所で姉のように慕っていた人が近頃出産し、お祝いと手伝いにかけつけたらしい。

「ねぇ、次の春分もやっぱり祭りはやんないの?」

カウンターの内側でコーヒーを淹れている恵に、釘崎は聞いてきた。祭り、というのは闘犬賭博のことを暗に指している、〈山間〉の人間だけに通じる隠語だ。

「アンタはどうせ行かないだろ。」

「まー興味ないけどね。」

昔から〈賭場〉に集まるのは主に男たちで、女性の姿はあまり見ない。それなのに釘崎が話題に出したのは、恵の最近の様子を知っているからだろう。虎杖と釘崎は、恵と渾との事情を正直に話すことができる数少ない友人だった。

「胴元がいないから開けないって言うけど、別に誰がやったっていいじゃないのよ。」

「そうはいかない。それなりの格がないとな。」

〈山間〉の主だった家々には屋号があり、格がある。普段は意識することはないが、ハレのとき、特に神事に関わる場合はこの不文律が重要になる。格付けは家の財力や権力で一律に決まる……というものでもなく、ややこしくて不合理なことかもしれないが、これをおろそかにすると人々の心がまとまらない。

例えば、虎杖家は〈牛飼〉という屋号があり、〈山間〉のなかでは伏黒家の〈犬屋〉と同じくらい古く、そして格が高い。虎杖家の先代が生きていれば胴元をやるに申し分なかったが、数年前に他界していた。今の当主である虎杖の父は、畜産経営の勉強のために現在海外留学しているから祭りには来られない。「それに、俺のとーちゃんは優男だから、〈賭場〉で揉めたときの仲裁なんて絶対ムリムリ!」というのは虎杖の言だ。

「それに、胴元は犬を持てないし、賭けにも参加できない。だから皆嫌がるんだ。賭けを取り仕切るより賭けに参加するほうが楽しいからな。」

「はぁー……博打にのめり込む気持ちは一生分かりそうにないわ。―――あ、虎杖の野郎から返信きた。もうすぐ来るって。」

 

数分後にレストランへ現れたもうひとりの友人は、いつになく興奮していた。

「伏黒、釘崎!面白い話あるけど聞く?しゃべるなって言われてんだけど!」

いつものラフなパーカー姿で、滑り込むように釘崎のとなりに座った虎杖が開口一番そう言い放った。

「しゃべるなって言われてるならしゃべるなよ。」

「いや~昨日さ、年寄連中の会合があってさ、」

「無駄よ伏黒。しゃべる気満々よこいつ。」

とりあえず恵は釘崎の前にホットコーヒー、虎杖の前にコーラをサーブして、空いた手でグラスを磨きながら聞くことにした。

「何で集まったかというと、次の春分の祭りをどうにかしようってことで、なんと!〈俵屋〉のおっちゃんが胴元の候補を見つけてきたってわけ!」

思いがけない言葉に恵ははっとした。釘崎もおどろいている。

「え、まじ?」

「マジ!なぁ伏黒、〈両面〉って屋号知ってるか?」

すぐにはピンとこなかった。昔甚爾から聞かされた、〈山間〉についてのあれこれを記憶の隅から掘り出してみる。

「確か……大昔に山の上のお社で神様を祀ってた神官の家、じゃなかったか?」

「すげー、知ってんだ。俺全然聞いたことなかったけど、戦後には〈山間〉から出て行っちゃったんだってな。」

「そうなのか。」

幼い頃の恵は大昔になくなった家と認識していたが、思ったよりも最近のことだった。

「年寄連中が言うにはさ、林業で大儲けして都会に飛び出して、あちこちの土地を転がして悪どいこともやって、今じゃ押しも押されぬ大富豪だってさ。」

「元神官とは思えないくらい俗っぽいわね。」

恵の記憶が正しければ、もともと〈賭場〉の胴元をつとめていたのは、まさしくその神官の家だったという。はじめから俗にまみれていたと言えなくもない。

「でも、〈賭場〉から山頂までの土地はいまだに〈両面〉の家が所有してるんだってさ。出ていくときに、ここは売ったりしないで、そのまんまにしとくって約束したらしいよ。」

「そんな豆知識はいいわよ。それで件の会合はどう踊ったわけよ?」

「せかすなよ~。もともと〈山間〉の人間で、家の格も申し分ないだろ。だから、なんやかやツテを辿って、今の〈両面〉の当主に連絡取って、胴元をやってほしいってお願いするために、会合に呼び出したんだ。俺も虎杖家の当主名代ってことで、潜り込んで話聞いてたんだけどさ。あ、伏黒にも声かけようかと思ったんだけど、今はそんな余裕ないかなって……」

「気にするな。続けろ。」

恵もすっかり話の成り行きが気になり出してきた。グラスを磨く手が完全に止まっている。

「聞くからに偉そーな金持ちがほんとに来るのかね?って思ってたけど、来てたよ。でも今の当主は〈賭場〉どころか〈山間〉のことも全然知らないみたいでさ、じいさんたちが一から十まで説明してたよ。―――でも、〈両面〉さんはあんまり興味をそそられなかったみたいだったな。わざわざ田舎くんだりまで来て香具師の真似事をする気はない、みたいなこと言ってた。」

恵は、知らず詰めていた息をそっとはいた。〈賭場〉が開かれる可能性がわずかにあったかもしれないが、実際そんなことはなかった、ただそれだけの話だった。虎杖がこのことを他言するなと言われたのは、〈山間〉の者たちをがっかりさせないためだろう。

「言うわねそいつ~。どんな奴だった?」

「なんかワルそうな顔してたわ。でも押し出しはリッパだったから、確かに胴元やらせたら貫禄あったろーな。喧嘩が起きてもひと睨みで鎮圧できそう。」

「そう言われるとちょっと見てみたかったわね。もう帰ったの?」

「さぁ?帰ったんじゃない?」

恵は亡くなった前の胴元を思い出していた。〈枡汲〉という屋号の酒屋のご隠居で、高齢だというのに大御所俳優のように油ののった浅黒い面構えだった。〈両面〉の当主もそんな感じの老人だったのだろうか。

虎杖が恵に顔を向けた。

「もうちょっとだったんだけど、残念だったな。この春も祭りは無理っぽい。じいさんたち、再チャレンジしてみるつもりみたいだけど。あーあ、俺がもう三十歳くらい歳食ってたら胴元やったのに。」

別に虎杖のせいではないのに、申し訳無さそうな顔をしているから笑ってしまった。

「いいんだ。俺はもう、〈賭場〉は開かれなくていいと思ってる。」

二人が恵の本意をうかがうように視線を向けてくる。でもこれは恵の本音だ。これ以上、人間たちの都合で渾を担ぎ出す必要はないだろう。

「ま、なかなか面白い話だったわよ。」

釘崎が適当に話をまとめたとき、客が一組来店してきたので恵は二人のもとを離れて仕事に戻った。虎杖も釘崎もこのあとは予定があるようで、またの再会を約束して退店していった。

 

 

夜、バイトを終えた恵が自宅の引き戸を開けたとき、異変に気づいて硬直した。なぜか、台所に明かりがついている。そこからブイヨンと香辛料の混ざった美味しそうな匂いがする。玄関の三和土には見覚えのある大きな靴がある。嫌な予感に脂汗がわいた。

おそるおそる台所をのぞくと、コンロの上では鍋が火にかけられ、ダイニングテーブルの上には見知らぬ段ボール箱があり、イスにはあの男が腰掛けて頬杖をつき、恵の本棚から抜いたとおぼしき文庫本を読んでいた。

「遅かったな、伏黒恵。」

目線だけをちらりと恵に向けて、男はそう言った。

色々と問い正したいことはあるが、完全に油断していたところへ不意打ちの衝撃でうまく声に出せない。なぜ戻ってきた?なぜ名前を知っている?なぜ家の中に入れた?

ひとつ目の問い以外は自力で答えを出せた。田舎ゆえに、近隣住民と同じく伏黒家の郵便受けにもしっかり氏名が書かれている。この男は昨日犬舎の柵の鍵を破壊した前科があることから、このぼろい家の裏口なり窓なりの鍵もまた無残に破壊することは朝飯前だろう。

助けを求めるために震える手でスマホを取り出した恵に、まぁ待て、と男は本を置く。

「昨日の礼に、俺が痛む腕に鞭打って手づから拵えた料理をオマエに食わせてやろうと思ったまでだ。昨今の若者といえど、オマエはひとの心づくしを無下にするような人非人ではなかろう?」

流暢にやたら恩着せがましいことを言ってくる。だいたいコイツはいくつなのだ。恵よりは年上だろうが、昨今の若者に説教垂れるほどの歳ではなかろうに。

「あぁ、ついでに渾にも餌をやっておいたぞ。」

「はぁ?」

あまつさえ渾の名を出されて裏返った声が出た。持っていた荷物を放り出して台所に踏み入る。

「餌ってどれだよ。」

「そこに置いてある大袋の、」

「違う、夜の餌はそれじゃない!」

「ならどれだ。」

「こっちの療法食だ、それにこっちとそっちのサプリも混ぜなくちゃならないのに、ていうかちゃんとグラム数測ったのかよ……!」

またしても犬に手を出されたことへの怒りで頭に血が上り、まくしたてながら棚をさぐって恵が指し示すものを、男が面白そうに見ているのに気づいて恵は正気に返った。犬の餌について教えている場合ではない。こいつと話すたびに調子を狂わされている気がする。急に脱力して、恵はよろよろとイスに腰を落とした。昨日はちゃんとベッドで寝られなかったところに、今日の労働の疲労ものしかかる。

「つ、疲れた……」

「そうか、よし、旨い肉を食わせてやろう。」

男は機嫌よく立ち上がって鍋に向かった。よく見ると、男は甚爾の服を着ているが、昨日恵が渡したものとは違うものだ。謎の段ボール箱を覗き込むと、この町のスーパーや商店街のものではない包装をされた食材が様々に詰め込まれていた。与えられる情報を恵の頭は処理しきれない。

そうこうするうちに、恵の前にスープ皿が置かれた。きれいな琥珀色の、だがとても平凡にみえる牛肉入りスープだ。レストランでもらったまかないを持ち帰ってきてはいたが、目の前の温かくいい匂いのする食事のほうにほだされそうになる。

再び正面の席に座った男を睨みつける。そして鈍った思考を巡らせた。恵の腕力では、この筋骨隆々な男をむりやり追い出そうとしても返り討ちにあうだろう。かといって警察を呼んだとしても、昨夜の渾による傷害を盾に、その恵よりよく回る口で逆にこちらを責め立ててくる可能性が高い。虎杖にSOSを出す手もあるが、あの善良な友がこの怪し過ぎる男に巻き込まれてしまうことは絶対に避けたい。

「俺を拒絶するのはあまり得策ではない、ということはわかっているな。あぁ、それからコレはもらっておくぞ。」

魔法のように男の手の中に現れたのは、戸棚にしまっておいた玄関のスペアキーだった。

「アンタ……何考えてんだ。」

それが恵にとって一番わからないことであった。わからないがゆえに、男の存在が恐怖でしかない。

「難しく考えるな。誰にも知られずに、食事と睡眠をゆっくりとれる場所がほしいだけだ。少なくとも、この腕が癒えるまでは。」

それは、手負いの獣ような発想だ、と思うと少し面白くて、恵は力なく笑った。

「他に聞くことがないなら、冷めないうちに食え。」

「あとひとつ、名前は何ていうんだ?」

男は少し考えて言った。

「名乗るほどのものではない。好きに呼べ。」

ゆっくりとスプーンを持ち上げながら恵はぼんやり考える。男の言動は何かに似ている。そうだ、猫だ。人間の都合などお構いなしにするりとやってきて、我が物顔でいつの間にか家の真ん中にのさばっている。

半ばやけくそでスープを口に放り込んで、おどろいた。今まで恵が食べてきたブイヨンスープとは全く違う。味が重層的に折り重なっている、という感覚を今このとき初めて知った。平凡そうという第一印象を改めることになった。虎杖家経営のレストランの料理だって、いい素材を選び見た目も美しい上等の料理なのだが、男の手によるこのスープはダイレクトに食欲を刺激してくるような根源的な力があった。口にスプーンを運ぶ速度が上がった恵を見て、男は満足げに笑う。

恵は猫を飼ったことがないから聞きかじりの話だが、猫はときどき猫なりの親切心で、狩った獲物をわざわざ人間のところに運んできたりする習性があるらしい。昼間のうちにどこかから食料を調達し、それをなぜか恵に振る舞うこの男の手間暇をかけた行動もまた、そういう猫のようだった。いや、こいつは猫のように小さくもなければ可愛くもない。もっと大きくて獰猛な、そう―――

「決めた。オマエの名前はとら、だ。」

そう言い放ってやると、男は初めてきょとりとした顔で首をかしげたので、恵の溜飲は少しだけ下がった。